「禅」と「働く」
禅の修行道場は、いわゆる「合宿生活」のようなスタイルで、基本的に修行僧自らが庭掃除やトイレ掃除、食事や事務作業などを分担して行います。入門したての頃には、坐禅や読経など自分の修行だけに専念できる時期もありますが、一定の期間が過ぎれば、様ざまな道場内の「仕事」が割り当てられ、それに当たることになります。
しかし中には、その「仕事」を嫌がる修行僧もいます。「こんな仕事は誰かに任せて、自分は坐禅や読経に没頭したい」と考える事は、無理がない事かもしれません。
しかし道元禅師は、この「働く」ことこそが、自己を育てる大切な修行になるのだと言います。
「働くことが修行になる」とは、一体どういうことなのでしょうか?
道元禅師はこう説かれます。
自分に順番が巡り、修行道場の役職に就き仕事を務めることになったなら、喜心、老心、大心という3つの心構えをしっかりと持たなければならない。
第1の喜心とは、自分の為した務めが誰かの役に立ち、自分の存在が誰かの生活を支えていること、そうした巡りあわせで仕事ができる喜びを感じること。
第2の老心とは、老婆心ともいい、老婆が孫を思うように、また親が子を思うように心を尽くし、相手を思い、仕事に当たること。
第3の大心とは、大きな山のようにどっしりとした、偏ったり固執したりしない心を持つこと。浮かれも落ち込みもせず、物事を俯瞰し、成功も失敗も一つの景色の中に一緒にとらえる心を持つこと。
こうした心構えで務めるならば、どんな種類の仕事であったとしても、自己を磨き、深める修行になるのだと、禅師は示すのです。
この言葉は、今を生きる私たちに「働く意味」について大切な問いを与えてくれます。
働くことを、単にお金を得るための手段と捉えるのか、それとも自らの学びと成長の重要な機会ととらえるのか。
そして何より、自分の仕事によって誰かの役に立てることに価値をおき、喜びや願いを持って向かうことが出来るのか。
自分の時間と労力の多くを注ぐ仕事への向き合い方によって、働くことの価値は「生きる意味」を伴い、大きく変わるはずです。