『赴粥飯法』と禅の食事作法
世界中のさまざまな食が容易に手に入り、食に対する考え方も多様化する現代。しかしそれ故にどう食事に向かい合えば良いのかを見失い、迷い悩む人も少なくありません。是非とも、曹洞宗で800年近く伝えられてきた、食に対する教えに触れてみてください。
道元禅師は、食に関する多くの教えを示されました。中でも調理係の心得と意義を説き示した『典座教訓』と、食事をいただく作法と意義を示した『赴粥飯法』の2冊は、いわば「作る修行」と「食べる修行」の尊さを教えて下さったと捉えることができるでしょう。
まずは私たちに最もなじみが深い、「食べる修行」についてご紹介します。
禅寺では、朝食の主食はお粥、昼食はご飯です。転じて「お粥」「ご飯」を「食事」という意味でも用います。「赴」は赴く、つまり「行く」という意味で、ここでは「食事の作法を行じる」という意味合いになります。つまり『赴粥飯法』の書名は直訳すれば「食事に赴く際の作法と心得」で、現代的にひらたくいえば禅僧のテーブルマナー指南書といって良いでしょう。
この書は道元禅師が永平寺で著されました。今から800年近く前に記された作法が今も連綿と受け嗣がれ、日々実践されています。
冒頭で此の食は、法喜禅悦の充足する所なり
(食事という行為はみほとけの教えが余すことなく顕れた仏法そのものであって、禅の教えに満ちた深い喜びを味わうことなのだ)と示して、食事をどうとらえるべきかという禅思想が説かれ、その後は詳細なる食事作法が誠に懇切丁寧に示されています。
定められた一連の食事作法を身につけるにはかなりの慣れが必要で、初めて見る人の多くはその複雑さと精緻さに驚きます。しかし慣れてしまうと非常に洗練された合理的作法であることに気がつきます。その流れるような動作にある種の美を感じるほどです。
食事は普段坐禅を行う大切な場所である「僧堂」で、お袈裟をかけた正式な法衣姿で行います。このことからも、食事自体を尊い修行と位置づけていることがおわかりでしょう。
『赴粥飯法』には僧堂への入り方、自席への着き方、お供えや読経の作法、配膳の方法、器の扱い方や食べ方、避けるべき諸の注意点、片付けの作法などが厳密に定められており、僧たちは今もその教えをかたく受け継いで食事を頂いています。
僧は「応量器」と呼ばれる、大小数枚の椀が入れ子式になっていて一つに重ねて収納できる漆塗りの器を所持しています。食事が始まるとそれを包んでいた布を広げてその上にうつわを並べます。昼食を例に取ると、浄人と呼ばれる給仕役の僧が木桶に入れたご飯や副菜などを堂内に運び入れ、各自のうつわに配膳します。
昼食では、僧たちは自らが食事を口にする前に、配膳された椀からご飯数粒を取りだして膳の脇に添じ、それを給仕係が回収します。これは自分だけが食事を得られれば良いという独善的な狭い心を誡め、他者に広く分け与える供養の心、分け与える布施の心を形にした作法です。集めたご飯は堂外の石台に献じられて鳥や虫などの生き物に施されます。
「応量器」が示す通り、各自の体調等に応じた必要分量だけが盛り付けられるため食べ残しはありませんが、どうしても箸では取りにくい小さな粒やかけらなどがうつわに貼り付いて残ることがあります。そこで食事が終わると各自の椀にお茶が注がれます。その温かさによって、付着した食事のかけらがふやかされて柔らかくなったら、「セツ」と呼ばれる先に小布がついた平たい棒でそれらをすべてきれいにこそぎ取り、そのままお茶と共に飲み干して何も残さずきれいに食べきります。さらに白湯が注がれ、そのお湯を使ってうつわをきれいに拭き清め、ふたたびお椀を一つに重ねてコンパクトに収納するのです。これによって、百人の僧が一度に食事を摂っても洗い物は出ず、その場で食事が完結します。
食事中は読経以外は一切無言で、長い時間をかけて丁寧に、ゆっくりと行じられます。何か別のことをしながら片手間半分で頂くようなことをせず、頂く時はその行為に全てを傾けて集中して行じるのは坐禅と全く同じ姿勢です。食事に徹することで、食材の命に深く感謝し敬意を表すこととなり、また繊細な味をしっかりと感じることもできるのです。