食べ物の命に差は無い
禅寺でいただく食事は「精進料理」と呼ばれます。精進料理ではお肉やお魚など動物性の食材を用いません。これは他の生命をことさらに奪わない不殺生の戒律に基づいており、精進料理の大きな特徴の一つです。しかし、この食材制限だけに偏って狭く受け止めてしまうと、残念ながら禅の教えの本質から遠ざかってしまいます。精進料理を正しく理解するために、その歴史を学んでみましょう。
インドにはかなり古くから肉や魚を避ける菜食主義の慣習がありました。そんな中で、仏教を開いたお釈迦さまは菜食主義に偏らず、食べ物に差を付けずにありがたく頂くことを説かれました。なぜならば、野菜や海藻、穀類など植物性の素材にも同じく尊い命が宿っており、それは動物や鳥、お魚の命と区別がないからです。野菜も動物も命の尊さに差はないのです。
また、僧たちは労働作業をせずに瞑想などの修行に専念していたため、この頃はまだ今のような精進料理の概念はなく、原則的に布施された食事だけを口にしていました。ただし理念上は食材制限がなかったとはいえ、貴重な肉魚が大量に寄進されることはそれほど多くなく、実際は植物性食材中心の枯淡な食生活が主体だったと伝えられています。
やがて仏教教団内に、お釈迦様の教えをどう解釈するかによっていくつかの集団ができ、アジア各国に伝播しながら発展します。現在の曹洞宗の源流となった禅宗では、日常生活の全てが尊い修行だと捉え、実践主義を掲げて諸々の作業を僧たちが自ら行うようになり、そうした中で料理を大切な修行として重んじるようになったのです。
その頃の中国では、寺院や僧の数が増え、寄進物だけで食事をまかなうのが難しくなっていたこともあり、僧たちは、畑を耕し、作物を育て、僧自らが台所に立ってさまざまな工夫をするようになります。しかし、自分たちで作るにあたっては、無制限に量や美味を求めては修行が乱れ煩悩につながります。そこで禅宗独自の規範である『清規』が整えられ、生活や行動、耕作や調理等に関する厳格な教団内基準が定められました。また、仏教思想が発展する中で、多くの人命が失われる戦乱の世を経て、より命の尊さを重視して苦悩する人々を救おうとする流れが広がり、生き物の命を奪わない教義が重んじられるようになり、さらに、中国古来の菜食主義の慣習も影響して、現在につながる精進料理の基礎ができあがったのです。
お釈迦さまの教えに立ち戻れば、どんな料理でも区別せずに、ありがたく頂く気持ちが大切です。「無分別」という禅語が示すとおり、禅では世間一般でいう相対的なものの見方から離れます。ですから、植物性・動物性という二元的な視点に固執せず、食材の命そのもののありがたさ、そして尊さをしっかり受け止め、食事に差を付けずに感謝して頂く姿勢が大切なのです。