道元禅師の教え
①『正法眼蔵』
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」
『正法眼蔵』 「現成公案」巻
(意訳)
仏道をならうこととは、自己をならうことである。自己をならうこととは、自己へのとらわれを忘れることである。自己へのとらわれを忘れることとは、一切の物事によって(自己を)明らかにされることである。一切の物事によって(自己を)明らかにされることとは、自己の身と心、他人の身と心を、自由の境地にさせることである。
(解説)
仏道を学ぶことを、他人事として捉えるのではなく、常に自らのこととして学ぶ必要があるとのお示しです。ただし、自ら自身へのとらわれは手放す必要があります。そうすれば、この世界全体を貫く仏道の道理のままに生きることになります。
②『永平広録』
「当山の兄弟、直に須らく専一に坐禅すべし。虚しく光陰を度ること莫れ。人命無常なり、更に何れの時をか待たん。」
『永平広録』 巻4-319上堂
(意訳)
この永平寺にいる修行僧たちよ、必ず専一に坐禅をしなさい。(他のことをして)無駄に時間を費やしてはならない。人の命は無常でいつ終わるとも知れない。この今、坐禅修行をしないで、いつの時を待つというのか。
(解説)
道元禅師は歴代の仏祖が伝えてこられた正しい仏法とは、ただひたすらなる坐禅(只管打坐)であるとし、その実践を修行僧達にも広く求めました。そして、今この時を除いて修行する機会はないとし、実践の継続を促されたのです。
③『弁道法』
「仏仏祖祖、道に在りて弁ず、道に非ずしては弁ぜず。法有れば生ず、法無ければ生ぜず。所以に大衆もし坐すれば衆に随って坐し、大衆もし臥せば衆に随って臥す。動静大衆に一如し、死生叢林を離れず。」
『弁道法』
(意訳)
仏や祖師たちは、常に仏道の上にあって、修行をされた。もし、仏道でないのなら、修行をされなかった。正しい修行は、法があれば生じ、法がなければ生じない。よって、他の修行僧たちが、坐禅をしているのなら、その修行僧にしたがって自らも坐禅し、他の修行僧たちが寝ているのであれば、その修行僧にしたがって自らも寝る。毎日の修行生活において、その動きは他の修行僧たちと同じくし、常に修行道場(叢林)を離れないのである。
(解説)
修行は自ら自身のこととして行いますが、しかし、自分にとらわれ、他人に先んじて多くの時間を修行しよう、といった考えは否定されます。あくまでも、他の修行僧たちの動きにともなって、自らも修行することにより、正しい仏道修行となるのです。
④『正法眼蔵随聞記』
「示して云く、学道の人は後日をまちて行道せんと思ふことなかれ、ただ今日今時をすごさずして日日時時を勤むべきなり。」
『正法眼蔵随聞記』 明和本巻6(表現を見やすく改めています)
(意訳)
道元禅師が示していわれるには、仏道を学ぶ人は、後日を待って修行しようと思ってはならない。ただ今日のこの時を無駄に過ごすことなく、毎日毎時に修行をつとめるべきである。
(解説)
ことわざにも「思い立ったが吉日」とありますが、仏の教えを学ぶのも、今この時を除いてしまってはいつまでも始まりません。縁があれば学び、一度学び始めたら継続的に学びたいものです。