曹洞宗におけるSDGsへの取り組みについて(3)

「曹洞宗におけるSDGsへの取り組みについて(2)」に引き続き、本稿では宗務庁内の部署の一つ、人権擁護推進本部(以下、人権本部)での取り組みをご紹介いたします。

前号の記事では、2020年度の教区人権学習資料映像で、当事者の方へ合理的配慮が必要な場面に僧侶が立ち会っていない、という点をお伝えしました。2019年度の資料作成を通じて、私たちは「障害のある方の視点を獲得し、身の回りにある障害を感じ取る」ことから始まる障害解消への取り組みを学びました。しかし、そもそも当事者の声も聞こえず、実際の困難も見えなければ、視点を獲得していたとしても障害そのものが見えてきません。特に映像資料を作るのであれば、困難のある場面を具体的に撮影し、葬儀や法事の現場ですぐ流用できるようなものを作成すべきです。

2020年度映像資料の一場面

実は、当初から「僧侶が出てこない」映像にしようとしていたわけではありませんでした。むしろ、葬儀や法事の最中に起こる困難を視覚的に再現し、それを解決するための資料を作成したいと思っていたのです。しかし、当事者の方からお話を聞いて分かった最大の問題は、「障害によって葬儀に参列できない」ということだったのです。

その障害は人によって様々です。会場がバリアフリーになっていなかったり、自宅から会場までの介助者がおらず移動手段がなかったりすることが障害となります。また社会からの偏見が、参列の障害となることもあります。

逆に、様々な障害があっても弔いの場に参列できる方もいらっしゃいます。それでも僧侶が障害に気づくことは難しいものでした。

例えば、葬儀や法事の施主家となっていれば、家族が参列するのが一般的になります。ですから、障害の有無に関わらず家族の一員がどうやったら参列できるかを考えます。そこで解決法を模索するのは家族であり、僧侶ではありません。また、世間の目にさらされることに恐怖すれば障害があることを隠し、家族であっても参列しないという選択を余儀なくされる現実があります。さらに、意思表示をしづらい障害がある方には、参列の意思確認すら不十分な場合もあります。こういった場面では、僧侶へ相談することはほとんど無いでしょう。

もし、見えない障害に関する葬儀の困難を映像にしようとすれば、そもそも参列できない現状を再現することになります。それは、普段の葬儀と何ら変わりません。これまで執り行われてきた葬儀が、誰かが参列できなかった葬儀だったかもしれないからです。だからこそ、見えづらい現状を知り、考えるきっかけを作る映像資料となりました。

2020年のコロナ禍で、オンライン供養という取り組みが一部で始まりました。感染予防のための移動や密集の回避が、様々なものに影響し、葬儀の参列に対する障害(障壁)となったからです。そういった障害に対する合理的配慮がなされた事例ともいえます。

これまでにも移動が困難で参列できない方がいたはずなのに、大きく話題にならなかったのは何故なのでしょうか。それは、困難を解決しようと動き始める人間が少なかったからだと考えます。だからこそ、一人ひとりがまず始めることが大切です。

障害の配慮に限らず、現代まで続けられてきたあらゆる「工夫(合理的配慮)」は、多様な困難を乗り越えようとして最初の一人が始めたものでしょう。やりたくないことをやらずに済むように、できなかったことをできるように、やりたいことをやれるように、たくさんの工夫が重ねられています。それは人類が火を道具にした頃から続く「伝灯」ともいえます。そして重なり合った工夫は、様々に影響し合い、波紋が広がっていくかのように、多くの困難が解消されてきました。例えば、障害者の権利運動によって、駅構内や多くの公共施設にスロープやエレベーターが設置されました。自力での移動に障害がある方に向けて工夫された合理的配慮の一つです。それらは、子連れの方や高齢の方のみならず、荷物を抱えた人や松葉杖を使用する人にも使いやすい工夫でした。

障害者福祉政策として始められた工夫が、人類の移動を容易にしてくれたのです。誰かの障害を解消することは、考えもしなかった誰かの困難を解決することがあります。

しかし、そういったものとは逆の場合もあります。火が争いの道具となり得るように、すぐれた道具が戦争の武器として使われることがあります。人口の増加に伴って作られてきた集団のルールが、時として他集団からの略奪を肯定することもあります。国同士が複雑に絡み合うようになった現代では、一人ひとりが道徳的に行動していても、結果的に遠い場所の悲劇を生むことがあります。

よく指摘される課題として、先進国と途上国間の貿易問題があります。それぞれの国の事業者が合法な取り引きをしていても、余力のある先進国側がどうしても有利になってしまうからです。そして有利な条件で輸入した品物に需要が集まってきます。誰も法を犯してはいませんが、格差が続いています。

また、社会制度などにも同じようなことがあります。端的に言えば、特定の人々に我慢をさせることで成り立つものです。

例えば、日本の識字率はほぼ100%に近い数字です。しかし、部落差別によって教育の機会を奪われた方がいます。障害によって文字を理解できない方がいます。

文字が理解し辛ければ、役所での手続きが難しくなります。どのような福祉サービスが受けられるのかを知る手段が限定され、そのサービスを受けるまでの時間がかかってしまいます。平常時ではどうにか生活を保てたとしても、災害時においては命の問題に直結します。

同じ地域住民であったとしても、少数者だという理由で我慢や不利益を強いられている現状は、大多数側にいる人々の日常からは意識しづらい状態になっています。

SDGsは個々人には見えづらい現代の課題を可視化した17のゴール(目標)と169のターゲット(具体的な課題や数値)が設定されていますが、よく知られる特徴が2つあります。

1つ目は、1000万人以上のアンケートを基盤にして設定されている点です。障害者権利条約が制定される際のスローガンに「Nothing about us without us」(私たちのことを、私たち抜きに決めないで)というものがあります。SDGsにも当事者を無視しないために様々な工夫がなされています。

2つ目は、当事者との対話によって定めた課題を個別に1つずつ解決しようとするのではなく、課題全体を包括的(インクルーシブ)に解決しようとしています。

障害のある人と困難について話をしていると様々な課題が見えてきます。けれど、その量が自分の許容量を超えていたり、課題が明確に理解できなかったりすると、解決したくても自分が何をしていいのか分からなくなります。ですからいくつかのテーマや、場面を整理し、優先順位をつけて行動しやすくする必要があります。 同じように「誰一人取り残さない社会の実現」という目標だけでは行動しにくいので、国連で定められたゴールやターゲットを参考に、我々が具体的になすべきことを考える必要があります。 しかし、ゴールやターゲットを一つに定め、それだけを遂行しようとすると、定めたものに直結する行動だけが正しく、その他を犠牲にしても良いと考えてしまうこともあります。

例えば、新型コロナ感染症予防には移動や密集の回避が奨励されましたが、経済の停滞を引き起こし、社会不安を広げる原因ともなりました。人がとどまることで収入が断たれた方は生活基盤が揺らぎました。家庭内に虐待や暴力の恐れがある場合は、一緒に居る時間が長くなることで命の危険に晒されました。実際に、コロナ禍での緊急事態宣言に伴い、虐待リスクの増大を懸念した取り組みが、民間だけでなく厚生労働省でも行われています。しかし、そういった問題を無視して自粛を強制しようとする動きもありました。

特定の課題だけに注力し、視野が狭くなれば別の問題を引き起こしている状態が見えなくなります。だからこそ、SDGsの達成には、視野を広げ、全体を包括的に解決しようとする意志が必要となります。 SDGsは、自分には何ができるのかを考える材料となり、一歩を踏み出すための後押しになります。世界にある課題を知り、今自分が置かれている現状と比較ができるようになるからです。そして、すでに行動し始めた人にとっては、自分の行動が別の問題に繋がっていないか、その行動がどのような解決に向かっているのかを判断する指針になります。

「誰一人取り残さない社会の実現」という旗印は、雲を掴むような話に聞こえるかもしれません。けれど、SDGsを知っていくと自分の身近にある困りごとと、遠い誰かの困りごととの繋がりが見えてきます。

人権本部で取り組ませていただいた、当事者の方たちとの資料作成は、雲を掴むのではなく、手を掴むことの大切さに気がつけた取り組みとなりました。SDGs達成への取り組みも、雲を眺めるだけで終わらないようにしていきたいと考えています。

人権擁護推進本部 記