【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和 10(最終回) ―アジア太平洋戦争と戦時教団―

2018.02.07

戦時教団へ ―宗教団体法準拠の新宗制―

曹洞宗の宗制は宗憲をはじめとする規則・規程として定められます。この制定改廃に当たるのは、宗派の議決機関、本宗の場合は曹洞宗議会<当時の呼称「宗会」>です。宗議会の議決を経ない宗制宗規は原則、発布施行できないことになっています。

しかし、この基本原則を踏襲せずに「超法規的」に認可施行された異例の宗制が存在するのです。
日本近代社会において、宗教団体の法律的な地位を認める最初の法律は「宗教団体法」(昭和14年4月8日法律第77号)です。この法律は、一定の要件と認証を経た宗教団体を「法人」として扱う一方、当時の国家方針に則った宗教統制法の性格が色濃く反映されていました。
各宗教団体、仏教各宗派は従前の宗制宗規等の規則を団体法準拠の条文に変更する必要が生じました。

曹洞宗は1940(昭和15)年3月に、曹洞宗宗務院(新宗制から「曹洞宗宗務院」)内に「曹洞宗宗制編制審議会」を設置し、新規宗制の編制に着手しましたが、その期限となる翌16年の3月末になっても、宗議会では「宗制案は審議決定を見ずして会期尽く」(横関了胤『曹洞宗百年のあゆみ』402頁)という状態でした。ついに宗議会では制定かなわず、宗務院当局は3月31日、駆け込みで主管官庁の文部省へ相談・申請して、急転直下文部大臣認可を経て新宗制が認可されました。

一宗の根本法規を大政翼賛体制の枠内に位置づけて、国家的な(戦時)要請に即応できる教団機構を整備したことになります。
蛇足ではありますが、従来は「在家化導標準」「布教ノ標準」および「(曹洞)宗教ノ大意」として依用されてきた『修証義』が、「宗典」に正規に編入されたのはこの新宗制からになります。新宗制第8条<教義ノ宣布>には『修証義』について「国家報效ほうこう(恩に報いる)の大義を実践せしむる」とあり、新たに国家主義的な意義が付与されています。

 

曹洞宗の戦時教団体制

曹洞宗教団の戦時体制の指導部となった組織は、「曹洞宗報国会」です。この組織の指導と関与のもとで、後に「勤労報国隊」「曹洞宗尼僧護国団」「曹洞宗戦時報国常会」等が組織され戦時活動を展開していきます。

報告会管長告諭 (『曹洞宗報』第56号)

曹洞宗報国会の結成日は、1941(昭和16)年9月15日(『曹洞宗報』第56号)です。管長告諭「曹洞宗報国会結成」・管長告示「曹洞宗報国会綱領・規約」には、「国家報効ほうこう」「挺身実践」「身心錬成」「国家要請即応」「臨戦態勢」「総力動員」等の戦時標語が見られます。報国会は、本部を宗務院に置き、内局をもって本部役員を構成し、会員は、本宗教師・僧侶および檀信徒であり、下部組織として各宗務所・教区・寺院教会単位の報国会支部の設立が義務づけられています。いわば戦時目的の中央集権的な国家翼賛組織といえるものです。報国会は、1945(昭和20)年9月に解散するまで、曹洞宗の翼賛体制・戦時体制の総司令部となっていました。

日本の戦局悪化と物資窮乏に伴い、教団の戦時体制は更に拡大し強固になっていきます。

1945(昭和20)年1月18日付管長告諭「曹洞宗戦時報国常会規則発布」・同日付総務宗達「甲第1号 同会施行細則」(『曹洞宗報』第123号)では、曹洞宗報国会を、常会運動組織に再編制します。宗教的信念を通じて、戦争推進の国策の具体化および戦力増強を図る目的で報国常会が設立されました。「同会施行細則」の「曹洞宗決戦常会運動方針」10ヵ条には、「興聖護国」「尽忠報国」「神仏礼拝祖先崇拝」「必勝信念昻揚」「生死一如ノ大悟」「感謝報恩」「禅ノ精神力」「禅的作務ノ勤労観 戦力増強」「特攻精神」「大東亜建設ノ涵養かんよう」などの運動方針を挙げます。このように、戦局の緊迫化・内地戦災増大に伴い、著しく精神主義的な運動方針となっています。

 

戦時教学の特徴

戦時教学とは、あまり聞きなれない用語です。1937(昭和12)年7月の日中全面戦争頃からアジア太平洋戦争終結までの間、宗教・各宗派において、戦争推進の目的または戦時体制の維持を目的とする宗学と仏教教学などを、ここでは「戦時教学」と定義します。この「戦時」とは、単に対外戦争の期間や有時という時間的な概念ではありません。自国の戦争を「聖戦せいせん」(正義の戦争)と評価し、戦死者を「英霊えいれい」(勝れた精霊)として「顕彰けんしょう」(称讃)し「戦時」目的に適合し、積極的にそれを推進する教学体系を指しています。

戦時教学は、各宗教やそれぞれの宗派の中で、その宗教の教理用語や信仰上の慣行を用いながら、独自の展開をしていきます。

曹洞宗では、「戦時教学」という名称は一般的ではありませんが、それに替わって「興亜こうあ教学」が提唱されていました。
開戦前の1941(昭和16)年4月、曹洞宗戦時教学の綱領を宗務院教学部が発表しました。その名を「大政翼賛 曹洞宗興亜教学布教綱領」といい、本綱領草案作成は、駒澤大学の青龍虎法・増永霊鳳・榑林くればやし皓堂・圭室たまむろ諦成・伊藤道学・高村禅雄らの碩学が担当しています。(『曹洞宗報』第45号)

その綱領は五項目より成り、曹洞宗の宗旨は、①国体明徴教②皇運扶翼教③敬神崇祖教④皇国民錬成教⑤皇民生活教として、護国正法と大政翼賛の精神を強調するものです。曹洞宗の宗義とされてきた「本証妙修」も、ここでは「背私向公の臣道実践」という滅私奉公精神や「大死一番・大活現成」の皇運扶翼精神にまで転釈されています。

総力戦における宗教の役割を強調していることは分かりますが、一種の言葉遊びに過ぎず、これから遭遇するであろう壊滅的な戦禍や膨大な死没者のことはまったく想像が及んでいません。日本本土が大空襲による戦場になるとは誰も考えていなかったのかもしれません。

 

経済的協力 愛国軍用機「曹洞号」と金属供出

 

総力戦の中、曹洞宗は戦意高揚だけではなく、具体的な経済的な協力も行っています。

対米英開戦前、1941(昭和16)年6月10日、管長告諭「愛国機『曹洞号』献納ノ件」(『曹洞宗報』第50号)を発し、支那事変四周年を記念して、陸海軍に軍用機献納を目的とする趣意書を発表しました。目標募金額は10万円です。

同年8月27日には8万円を陸軍省へ、6万円を海軍省へ献納手続を終え、翌年9月には埼玉県所沢飛行場にて献納愛国機命名式が挙行されています。昭和17年度曹洞宗宗務院の歳出合計額が約67万円であることからすると、当時の曹洞宗予算の5分の1の金額が数ヵ月間で募金されたことになります。(『曹洞宗報』第55・81号)
戦争遂行に必須となる物資、とくに金属資源を国民に供出させる勅令「金属類回収令」実施に呼応して、曹洞宗宗務院は寺院・教会所有の鉄・銅・黄銅・青銅等の金属回収と、あわせて檀信徒に向けても特別供出に応じるよう通知しています。(宗達甲第11号「金属類供出の達示」『曹洞宗報』第59号) 

この金属供出要請にもとづいて、全国の寺院・教会の仏具や什物が回収され、代替品(セメント・陶器等)と交換されました。国民とその各種団体のすべてが戦時目的に動員される総力戦の具体的な姿です。

毎日、時を告げてきた宗門寺院の梵鐘や半鐘も相当数が供出されます。その供出に際して宗務院は、仏具応召供養会もしくは供出梵鐘供養会についての式次第や回向文等の雛形を『曹洞宗報』第84号に掲載し、その活用を呼びかけています。

 

戦時布教・教化活動 

般若心経壱千万巻浄写必勝祈願運動

国民のすべての営為が戦争遂行に捧げられていく総力戦体制は、仏教教団も例外ではありません。ただ経済的に貢献するにとどまらず、宗教活動も戦時目的に沿って展開します。

1944(昭和19)年7月19日付の管長告諭と管長令達第8号(『曹洞宗報』第120号)では、「般若心経壱千万巻浄写必勝祈願運動」の開始を発令しています。その趣旨説明には、

……経典浄写のこと…元寇の危殆きたいに臨み北條ほうじょう時宗ときむね滴々の碧血を捧げて以て浄写祈願の法会を修するや一字一画悉く神兵と化せし如き万世伝へて感動やまざる所なり、般若心経は怨敵降伏息災招福の大神咒なり米英撃摧(げきさい)の熱禱に燃ゆる心血を以て大神咒を浄写す……

と述べ、心経写経の神力によって元寇時のような神風を起こし、米英を降伏に追い込もうとしています。戦局の緊迫化にともない、益々精神主義的な運動をエスカレートさせていることが分かります。

この写経運動を受けて、同年9月1日から7日にかけては、大本山永平寺を会場にして、写経された心経を奉り、般若心経一千万巻浄写必勝祈願大法要を挙げて、その護符を皇室へ献上しました。

 

日本の戦没者は戦争末期数ヵ月に急増している

心経浄写必勝祈願(『曹洞宗報』第120号)

曹洞宗のみならず仏教各宗派も含め、決戦体制や極端な皇道仏教化が進んでいる同時期、日本の内外はどうだったのでしょうか?

意外なことには、世間では「徹底抗戦」「一億玉砕ぎょくさい」が叫ばれている中、当時の日本政府や軍部首脳は、戦争の終結や講和を内心では求めながらも、その重大決断を先送りしていました。講和仲介国として期待していたソビエト連邦が対日参戦する意向だという機密情報を数ヵ月前に入手していながら、その迅速適切な処置を保留にしている中で、沖縄戦、シベリア抑留、中国残留孤児、北方領土問題そして米軍の広島と長崎への原子爆弾投下などの戦後の多くの問題がこの期間に発生しています。

日本の戦没者(軍人・軍属および民間人)は、約310万人以上にのぼると言われていますが、戦争末期の数ヵ月間に激増しています。このような戦局の緊迫に際して、戦争遂行是非の判断が、政府首脳・軍部・外務省によっていわばたらい回しにされ、本土が壊滅的な戦災に見舞われていきます。

1945(昭和20)年8月8日にソビエト連邦は、日ソ中立条約(不可侵条約)を破棄して、日本に対し宣戦布告し翌日未明から大規模な侵攻に入りました。この対日参戦の知らせを受けた当時の内大臣や外務省幹部は「(これで終戦工作ができる)天佑てんゆう(天の助け)だと思った」「ここに至ったのは不幸中の幸い」と戦後証言しています。中国東北部(当時「満洲」)や朝鮮半島および樺太等におけるにおける民間居留民の多くが虐殺や飢餓等で命を落としたり、家族が離散したりしている中で、政府幹部は自分の保身や利益だけしか考えていなかったのです。

このような政府・軍部の無責任な姿勢をすでに予見していた文化人もいたのです。中江兆(ちょう)民(みん)(自由民権思想家・政治家)の長男で中国在住の在野研究者であった中江丑吉うしきち(1889~1942)の言葉を紹介します。

 

「日本も近く大戦争を惹起し、そして結局は満州はおろか、台湾、朝鮮までもモギ取られる日が必ずくる。日本は有史以来の艱難かんなんの底に沈むだろう。……今の方向で行って日本が仮に勝利を占めることがあったとすれば、軍の驕慢きょうまんや官僚の独善やらは天井知らずになり、健全で明朗な民族の生長などは絶対に望めなくなる。だから病根を抱いて不健全に膨脹するよりも、負けて民族の性格を根本的に叩き直す方がいいんだ」

(阪谷芳直「世界史進展の法則」より)

 

政府が戦争終結を決断できない中で、1945(昭和20)年8月14日深夜の御前会議において、天皇の「聖断」により連合国のポツダム宣言(日本の無条件降伏)の受諾を決定しました。ここにアジア太平洋戦争は、日本の降伏によって敗戦(政府は「終戦」と表現)を迎えました。

 

戦時教団から平和建設教団へ

終戦詔書奉戴告諭 『曹洞宗報』第125号

天皇の「聖断」によるポツダム宣言受諾が、8月15日正午に日本放送協会ラジオで天皇の肉声で直接、国民に伝えられました。これを一般に「玉音放送」と呼んでいます。

これを境に急転直下の世相の大転換が起こります。

反戦や厭戦は当然のことながら、戦時下の庶民の不平不満も、体制転覆や国家反逆の嫌疑がかけられていた時代でした。それが、15日正午を過ぎたとたんに、「悠久の大義」は悪に、軍国主義反対は善になりました。

日本の世相のみならず、あれだけ対米英への敵愾てきがい心をあおり、戦意高揚に邁進まいしんしていた仏教教団も、その機関誌の紙面が一変します。

『曹洞宗報』第125号巻頭には、8月15日の和平詔書にもとづき、同日付で告諭「戦争終結と平和建設ノ件」が達示されています。

実際の紙面を見ますと、戦争による資源逼迫ひっぱくの影響か、極端に紙質も落ち、表題には『曹洞宗報』4月号とあります。実際に発行されているのは、8月以降であるにもかかわらず、4月号の文字が残っているのは、単なる誤植ではなく、物資統制と配給のため、外枠だけ先に印刷して紙面を確保していたのかもしれません。

この管長告諭には

……今ヤ我国ハ其本来ノ目的タル平和建設ニ一路精進セントスル秋之ガ中核タルベキ精神界ニ重責ヲ負ヒ思想善導ニ挺身ていしんスベキ教家ノ任実ニ重かつ大ナリト謂フベシ吾等ハ当ニ慈悲平等平和ノ第一義的仏教ノ使命ニ自覚シ専念国運ノ展開ニ奉仕シ……

とあります。ここには「慈悲」「平等」「平和」などとあり、戦時『曹洞宗報』の文面の攻撃的な語彙と入れ替わっています。

戦時教団は終わり、平和建設教団「曹洞宗」が始まったわけですが、この大転換を論理的または倫理的に説明できる人はいたのでしょうか。

世相と宗教教団の言説の激変と、それにもかかわらず一向に変わらなかった体質や習慣について考えてみる必要があるかも知れません。つまり、あの8月15日を機に、戦時教団が平和建設教団へ劇的に切り替わったという単純なことではないということです。

曹洞宗における戦争と平和の課題は、過去の歴史の一こまではなく、実は現代の私たちにもつながっているのかもしれません。

過去を現代の鏡として、もう一度自らの立脚点を見つめなおしてみませんか?

連載完

 (人権擁護推進本部記)

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