【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和 4 ―満洲事変と曹洞宗の通達―
戦争は知らないうちに始まっている
戦争は私たちの知らないうちに、実態としてすでに始まっていることがあります。
これまでの連載で採り上げてきた日清戦争(1894~95)日露戦争(1904~05)そして第一次世界大戦(1914~18)参戦は、日本国が清国、帝政ロシアそしてドイツに対して、正式に宣戦布告をして国家戦争を開始しています。
満洲事変から日中戦争を経て、アジア・太平洋戦争開戦までの約10年間の武力衝突は、日本国内では「事変」と呼ばれていて、「戦争」としては公式に認知されていません。なぜならば、相手国に対する正式の宣戦布告がないまま、実質的に戦争状況に入っているためです。
しかしながら、「事変」と表現していたとしても、その当事国や現地の人々からすれば、「戦争」であることになんら変わりはないのです。
中国に派遣されていた関東軍参謀らが天皇の裁可も政府の許可もなく、1931(昭和6)年9月、中華民国奉天(現瀋陽)郊外柳条湖付近の南満洲鉄道を爆破してから、日中間の武力衝突を経て、満洲全域を占領した事件を、日本では「満洲事変」と呼んでいます。
後に1937(昭和12)年7月の日中全面戦争拡大の遠因ともなったこの軍事衝突を、当初はあまり深刻に受けとめていなかったようです。戦後の歴史学では、「15年戦争」と呼ばれる発端となったこの満洲「事変」を、当時の日本国民も宗門も「戦争」そのものとは認識していません。
「戦争」といえば、ある国家やその同盟国が、別の国家に対して宣戦布告して始まる軍事衝突だという言葉の定義からすれば、満洲事変や日中戦争(支那事変)は、たしかに現地での武力衝突や紛争はあったものの、正式の宣戦布告はありませんので、「戦争」とは呼べないのでしょう。
世界大戦や自国が直接戦禍に見舞われないかぎり、局地戦や偶発的な衝突とみなしているかぎり、戦争の姿は見えなくなってしまいます。
しかし、よく考えてみてください。核兵器を使用したり、大国同士が実際に参画しなくても、大義名分にかかわらず、実際に武力をもって闘えば、どんな小国や狭いエリアではあっても、当事者にとっては「戦争」は「戦争」です。戦争が人々の生命や財産とその生活を脅かすとしたら、局地戦、全面戦争、総力戦などの区別は、実際には意味のないことです。
現代の戦争はすでに国家主導のかつてのスタイルとは仕組みが異なっています。アルカイダやIS等のテロリズムのように敵対者が特定の指導者や既知の国家組織である必要はなく、国家に従属しない、不信と不寛容のネットワークによって、戦争が連鎖的に進行しているのが現代戦争の特徴です。
また、現代の戦争は、民衆が独裁者に煽動されて始めるものではなく、インターネットによる電子広報を駆使できるエリート・知識人がひそかに計画しているのも特徴のひとつです。
欧米社会が、「テロとの戦い」という政治スローガンによってアフガニスタン、イラク、シリアなどの主権国家に対して攻撃しても、テロリズムは崩壊するどころかさらに拡散・深化し、当初は仲間と考えていた自国民がテロリズムを実行するなど、戦争の様相が激変しているのが現代の特徴です。
現代をリアルタイムで生活している私たちが「戦争」とはまったく認識していないこの時代が、ある意味では大きな戦時であることもありえないことではないのです。
直接の戦地ではないことや、国家が他の国家に戦争を行使していないといって、私たちが「平和」を生きていると断定してもいいのでしょうか?
満洲事変というと、日本とアジアの昔話と思われるかもしれません。実は、その現象は異なるものの、歴史の方向としては戦争の抽象化による美化や国家組織への無批判・順応などの共通点が多く発見されます。
戦争認識の枠組みからははみだしたところから、満州事変以降、実態としての戦争はすでに始まっていたのです。
現代社会は、単純に過去の歴史を反復しているわけではありませんが、こと戦争については、その予兆や雰囲気も含め、再び過ちを繰り返さないように留意しなければなりません。
過去に学ぶとは、その失敗や過誤による災禍を防ぐためにあるのです。
満洲事変当時の法規令達
関東軍参謀らによる謀略によって、後に「満洲事変」と呼ばれる軍事衝突が、1931(昭和6)年9月18日午後10時過ぎに勃発しました。
曹洞宗の機関誌『宗報』の関連公式記事が初めて掲載されたのは、同年11月15日発行の第八二六号です。
事件発生から約2ヵ月間もの時間が経過しています。これまでの対外戦争における宗門の対応と比較すると、非常に遅い動きといえます。
満洲事変当初における戦時通達は、次の五文書です。(時系列掲載順・件名は昭和6年『宗報目録』による)
昭和六年一一月一五日付
- 諭達 満洲事変恤兵金募集ノ件
- 宗達乙第十二号 滿洲事変恤兵金募集ニ付教区長ニ達
『宗報』第八二六号
昭和六年一二月一日付
- 告示第二十九号 滿洲事変戦死病歿本宗僧侶法階贈補及殊遇ノ件
- 告示第三十号 滿洲事変戦死病歿本宗檀信徒ニ血脈授与及永世回向セラルヘキ件
- 宗達甲第四号 滿洲事変ニ就キ寺院住職及僧侶ノ体得スヘキ件
『宗報』第八二七号
最初の諭達文書「満洲事変恤兵金募集ノ件」の全文を以下に転載します。「恤兵」とは戦地の将兵に慰問品や金銭を寄付することです。
諭達
這回ノ満洲事變ハ国際的ニ複雑ナル關係ヲ有シ之カ推移ハ延イテ容易ナラサル事態ヲ惹起スルノ虞アリ是レ朝野ヲ挙ケテ憂慮スル所ナリ
今次事變ニ派遣セラレタル我カ忠勇ナル将士ハ國家重大ノ使命ヲ負荷シ日夜萬死ノ危境ヲ來往シテ犠牲者モ亦尠カラス時恰モ向寒ノ季朔風膚ヲ裂ク満州(ママ)ノ曠野ニ馳驅スル我軍ノ将士ハ寒威干戎衣ニ徹シテ露営ノ夢結ヒ難ク其艱難察スルニ餘アリ
本宗曩ニ龍文寺住職佐川玄彝ヲ満洲ヘ特派シ布教管理若本德温ト共ニ各地駐屯軍隊ヲ慰問シ且ツ戦死者ノ追弔ヲ營マシメ尚ホ同地各駐在布教師ニ命シテ機宜ニ應シ弔慰ノ事ニ當ラシメタリ
更ニ闊宗ノ道俗力ヲ協セ聊カ将士ノ勞苦ヲ慰籍センカ為メ左ノ方法ニ依リ恤兵金ヲ募集セントス依テ一寺住職ノ據金ハ勿論有志檀信徒ヲ奨勵シテ相當ノ金額ヲ寄贈セシムヘシ
一 恤兵金ハ一口金貮拾銭以上
一 募集締切期日ハ本年十二月十五日限リ
一 募集金ハ本院ニ於テ適當ニ處置ス
一 募集金ハ宗報ニ掲示シ一々領證ニ代フ
昭和六年十一月十五日
總 務 祥雲晩成
財務部長 嶽岡悦安
教学部長 織田活道
人事部長 保坂眞哉
庶務部長 吉川悦隆
『宗報』第八二六号 昭和六年十一月十五日発行 法規令達所載
この諭達では、滿洲事変の戦線拡大に呼応して、宗門として佐川・若本両師を派遣し、戦死者の追弔に当たらせるとともに、事変に出征した将兵への恤兵金の募集を告知しています。
曹洞宗における恤兵金の募集は、これまで見てきましたように日清・日露そして第一次世界大戦の戦時対応を踏襲しています。宣戦布告によって戦時に突入したわけではありませんが、実質的に戦争が始まっているということになります。
さらに、宗達甲第四号「滿洲事変ニ就キ寺院住職及僧侶ノ体得スヘキ件」にはこの事変に対する宗侶の行動指針を次のように定めています。
宗達甲第四號
今般滿洲事燮ニ對シ本宗寺院住職及一般僧侶ハ左ノ件々ヲ體得シ各自忠君報國ノ志ヲ発揮シ此國家重大ノ時局ニ際シ其ノ本分ヲ完ウスルコトニ努力スへシ
一 各寺院毎朝特ニ 天皇陛下ノ玉體康寧聖壽無疆ヲ祝祷シ派遣軍人ノ身體健全武運長久ヲ祈念スヘシ
二 各寺院借侶説教若クハ法話ヲ爲スノ際檀信徒ニ對シ其職務ヲ勵ミ且ツ奉公ノ精神ヲ以テ節約ノ美風ヲ養ヒ切ニ派遣軍人ヲ慰恤スルコトヲ奨ムへシ
三 各寺院僧侶ハ此際各自ノ衣資ヲ節シテ十一月十五日ノ宗達ニ準シ應分ノ恤兵金ヲ寄附スヘシ
四 前項恤兵金ノ募集締切期日ハ第一回ヲ本年十二月十五日トシ第二回ヲ本年十二月末日トス
昭和六年十二月一日
『宗報』第八二七号 昭和六年十二月一日発行「法規令達」所載
この宗達も、第一次大戦時の宗達甲四号等の内容をほぼ踏襲するもので、ことさら新たな対応とはいえません。
満州事変について、当時の曹洞宗や日本社会はあまり強い関心をもっていなかったのでしょうか?
実はその逆で、民間、とりわけその当時の新聞等報道機関の迅速な取材合戦と読者の熱狂とが、その後の日本の針路を決定することになるのです。 『宗報』の周辺とその社会動向については、次回で考察していきます。
(人権擁護推進本部)