梅花流詠讃歌【梅花照星に似たり】②
春とは名のみ、雪がちらつく昭和50年2月21日は北陸特有のどんよりとした空の広がる寒い日でした。当時私は13歳で中学1年生。確か社会の授業中だったと記憶しています。
私は授業の担当教諭から「お父さんが危篤だそうだから、今すぐ帰りなさい」と促され、頭が混乱する中、2つ上の姉と泣きながら帰宅し、入院先の病院へ向かいました。
病室に入って目に飛び込んできたのは、苦しみながら今まさに息を引き取ろうとしている父の姿でした。
重い病のため言葉を交わすことも出来ず、涙を流しながら私を見つめる眼差しは、布教の道を歩んできた父の無言の説法だったのかも知れません。
あの日から50年の歳月が流れ、昨年2月に親族、檀家さんたちと50回忌を営みました。
歳月いつか重ね来て 遠くなりたる御親達
いかで忘れん御教訓の きびしき声と笑顔をば
「報恩供養御和讃」の一番の歌詞です。
法要中にお唱えしたこの曲の歌詞には、年回法要の日を迎え、亡き両親が生前、時には優しい笑顔で、時には厳しい言葉で自分を導いてくれたことを想いながら、今もその場に居るよう供養を勤めることの大切さが込められています。
供養を勤める心の表現としては、二番の歌詞にあるように御灯明(ろうそくのことです)を灯し、お線香などの香りを差し上げ、お花を供えることも大切です。ただ三番の歌詞では仏さまへの報恩供養を詠いますが、歌詞にある「深きはささぐわがまこと」の意味を考えれば、仏さまの慈悲の感得と霊前に尽くす報恩の供養とは別のものではなく、お供えものの一つ一つがまごころそのものであり、まごころの表現を尽くすことによって自らが仏さまの慈悲を受け止めるということになるのです。
「ああせよと人にいうより、こうせよと自分が示す教えなりけり」といいます。仏さまの慈悲をいただくには、人を包み込むあたたかい心が必要です。お互いが幸せに暮らしてゆく道、それは徒らに口やかましく人を指すことではなく、自分自身がお手本を示していくことです。こうした生き方こそが親や先祖、仏さまに対する感謝報恩の道なのです。
私はこの自らが行動を示すという生き方を、亡き父の教えとして、五十回忌報恩供養の日にいただだいた気がするのです。
静岡県官長寺 住職 大田哲山