【人権フォーラム】不破一浩さんインタビュー「分かちがたい世界で、不完全な自分を認めること」
人権擁護活動に取り組む宗門僧侶の方々へのインタビュー第2回は、曹洞宗人権教育啓発相談員を務める不破一浩さんにお話いただきました。
大本山永平寺での安居を経たあと、30年にわたり福祉に携わられてきた不破さん。専門は重度知的障害者療育で、特に強度行動障害を有する方々とその家族の支援に取り組まれてきました。退職後は施設の研修講師として人材育成に関わられています。実はそんな不破さん、思春期は何かと問題を起こすことが多く、今になっても同窓会などには胸が痛んでとても行く勇気が出ないと話されていました。
諭される立場と諭す立場の両方に通じられた不破さんから、現代人が苦悩を乗り越え、共に生きるヒントをいただきました。
プロフィール 不破一浩さん:兵庫県丹波市東漸寺住職/社会福祉士/障害者相談支援専門員/障害者サービス管理責任者養成指導者/保護司 他
○一切衆生の一人ひとりと関わっていく
―不破さんは、住職を勤めながら、障害者施設でもお仕事されていたそうですね。
不破:二足の草鞋を履くことを批難されることもあり、悩みながら勤めてましたね。今となっては自己成長の糧となる年月だったとも思いますが。
―どのような体験から人権問題に取り組むようになったんですか?
不破:私が勤めていた施設は、障害がある方の「家庭」に替わる機能を持つところです。つまり「生活の場」であるということです。ですから、当然QOL(Quolity Of Life:生活の質/以下QOL)を大切にしなければなりません。ところが、私の目にはとても満足のいく「生活の場」には映りませんでした。
―なるほど。
不破:生活の質を下げてしまうのは、ずばり「不快刺激」ですね。生活環境の中に不快な刺激が多いほど、逆に心地良い「快刺激」が少ないほど生活の質は低いということになります。ですから、在勤中は「不快刺激の徹底排除」と「快刺激の積極提示」に力を注いできました。
―そういった経験から「障害者の人権問題」に取り組まれるようになったわけですね。
不破:いえいえ、当初は人権擁護という概念とは関係なく取り組んでおりました。ただ単に、我慢を強いられている利用者さんの実情を変えないといけないと思っていたからなんです。障害があるから、施設で生活しているから、集団生活の場だから、という理由は我慢しなければならない理由にしてはいけないと思っています。実は「人権問題」という言葉を意識しはじめたのはごく最近の話です。当時の宗務所長から人権擁護推進主事任用のお声かけをいただいたことがきっかけになります。現在、曹洞宗人権教育啓発相談員という役目をいただいてますのもそのときのご縁の延長なんです。
―なるほど、ご縁によって本格的に人権問題に取り組まれるようになられたんですね。現在、不破さんが解釈される「人権」とはなんでしょう?
不破:人権とは「人が幸せに生きる権利」の略称と解釈するだけで充分だと思います。ちなみにこの解釈は「これだけは知っておきたいQ&A(人権擁護推進本部発行)」からのアウトプットですが(笑)。
人の幸せを阻害するのが「人権侵害」で、人の幸せを応援しようとするのが「人権擁護」、これだけでいいんじゃないでしょうか。
―宗教者が人権学習に取り組む意義をどのようにお考えですか?
不破:仏祖の教えに依拠し、教えを忠実に再現すれば人権問題が起ころうはずがない、よって宗教者に人権学習などそもそも必要がないという信心第一主義を主張される方にもたびたびお会いいたしました。ごもっともな主張であると思いながらも、あえて反論してまいりました。
―たしかに信心さえあれば人権学習は不要にも思えます。どのように応じられましたか?
不破:「この体 鬼と仏と 合い住める」という一句があります。この句は「不完全な存在である我々」という認識に通じます。完全ならば覚者であり如来ですからね。私自身は菩薩行を「自己に内在する仏部分を増幅し、鬼部分を駆逐するもの」と捉えています。ですから反論の根幹はここにあって、人権学習に臨むのも菩薩行の一環であることを理解してもらえるように話します。
○不完全だと認める勇気
―「自分自身が不完全」と認識するのはとても勇気のいることでもありますよね。
不破:そうそう。あまりに自分が不完全だと思いすぎると、それはそれで間違った道をいくことになってしまいます。不完全な自分を認識するといっても、相田みつをさんの詩句と同じように「だって、人間なんだもん」くらいで丁度いいんじゃないですか(笑)。
―とても素敵な自己との向き合い方だと思います。
不破:話をもどして、宗侶が人権問題に取り組むことは太祖さまが著された『洞谷記』に示される「諸々の衆生を救済せん 別願一切 之を管せざる」に合致すると思えます。当然、大乗思想とも無理なく整合します。
―なるほど。お言葉は難しく見えるんですが、現代でも通じるものなんですね。
不破:はい。理屈を並べればという話だけですけども。
―宗教者と福祉のつながりって何ですか?
不破:宗教者と福祉のつながりを深く考えたことがないのでお答えするのは難しいです。私としては福祉はご縁のものなので、当り前に繋がっていました。もっというと、私自身をスペクトラムな存在と捉えているからなんですかね。
スペクトラムというのはいろんなものが明確に区切れていない状態を指します。例えば、日本では虹は七色となっていますが、アメリカでは六色、ドイツでは五色なのだそうです。つまり、同じ虹であっても地域で句切り方が違う。でも虹は虹のままです。ここからここまでが僧侶の部分で、ここからここまでが福祉従事者の部分、ここからここまでが素の自分というのを区切らずに勤めてきたんだなと、今質問されてはじめて気付いた次第です。
―宗教者であると同時に社会の構成員である以上、枠を超えて社会にコミットすることは当たり前のことなのかも知れませんね。
○「学びは己の為ならず」を体感した
―現代の人権問題は、非常に多様で複雑な印象があります。
不破:そのとおりですね。社会的マイノリティというだけでも裾野はとてもひろがりますから。こんなに多様化してしまうと対応しきれないと感じてしまう人もいるでしょうね。でもそれは間違って言葉が広がったイメージだと思いますよ。最初から多様なんですから。十人十色、百人百様、千差万別という言葉が昔からあるように、昔から多様なんです。人は唯一無二ですから人の数だけ多様な様相があるのは当たり前のことで、今になって騒ぐことでもないんです。その人個人に目を向けるべきことですから。
―個人に焦点を合わすということですか? 日本だけでも一億人を超えてしまいます。
不破:自分ひとりで対処しようと考えると頓挫します。チームで臨むんです。連帯と連携の力は大きいです。無論、何でもかんでもチームで対処することでなく、目の前にいる人には惜しみなく自分の力を手向けねばならないです。
―ゼロからチームを作るのは難しいですよね。
不破:既成既存のチーム(人権団体や人権組織)に関与するだけでもいいんです。そういった既存チームはノウハウが蓄積されており自身の考え方を育む場にもなります。
―なるほどですね。では個人ができる具体的な行動とは何でしょう。
不破:まずは寄り添うということでしょう。福祉現場でも「寄り添い」は特に重要なキーワードです。本当にただ身体的に寄り添うだけでもいいんです。無言のままでもいいんです。とにかくそばに近づいて同じ場所で寄り添う。それだけで孤独感や孤立感が和らぎ、その人自身の力が高まることを私は現場で体験しました。
でも寄り添いで大切なことは言わずもがな心を寄り添えることです。心を寄り添わせなければ共感ができません。相手の辛さの核心に近づくことができません。
ただ、注意しなければならないこともあります。寄り添う側に「共感疲労」という現象がおこることもあるということです。深く共感するあまり自分の身体と心の調子が崩れてしまう現象です。
―共感疲労ですか。悩み事相談を受けられる機会の多い宗教者にも気をつけていただかないと。
不破:そうですね(笑)。
ちなみに、福祉業界では深刻な人材不足で、離職率の高さも問題となっています。その離職要因の一つに共感疲労による身心不調が挙げられているほどです。
―最後に、どうすれば今以上に人権擁護の推進が図れるでしょうか?
不破:学び続けようとすることです。「情けは人の為ならず」といわれますが、長年の臨床現場で「学びは己の為ならず」ということを体感いたしました。学び始めた頃の私は自分のスキルアップという意識しかありませんでしたが、学んだ援助技法を実際にやってみると利用者さんたちが目の輝きを取り戻されるんです。自己研鑽を目的とした勉強が、他者の役に立つことにつながるという連鎖を実感したんです。
人権擁護の推進を加速化させようとする場合も同様であると思います。学ぶことによって得た見識が人権侵害の基となる偏見や先入観が削ぎ落とされていくものと強く思っています。「学び」は必ずや人の幸せを後押しする力になることを特に強調してお伝えしたいです。なんだか偉そうに言ってごめんなさい。
(合掌)
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人権を学ぶ推薦図書―② 『生命の感受性』落合恵子/岩波書店
日々を大切にして生きる著者のエッセンスともいうべき日記形式のエッセイ。人というのは、「障害のある人」と「今はまだ障害がない人」しかいないのではないかという本質的な問いに心を打たれたそうだ。
人権擁護推進本部 記