梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】㉑
ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも
今まで何度か取り上げた歌人、上田三四二の代表作です。上田は、この歌を作った3年前に結腸癌の手術を受けました。自らの体調の回復を試すように、吉野まで足を運び、桜を愛でた時の作品です。4日間の滞留の間に作った二十八首の中のひとつです。この一連については「わが風狂の艶のあるもの」と自虐的に語っていますが、どこまでも格調は高く、調べもとおり、上田の力がいかんなく発揮されています。「かずかぎりなく」散る桜の花が、光を引きながら谷に舞い落ちてゆく光景です。
読者の視点を散りゆく花に誘い、「光をひきて」「谷にゆく」という言葉で歌を動かし、その動きにともなって「ことごとく光をひきて」という美の頂点に読者を導いています。明るい光を引きながら散ってゆく花は、あるところを区切りに輝きを失い、暗い谷底へと消えてゆきます。
この歌が、読者に感動を与える理由は、光と影の対比が鮮やかで、それが「生と死」を連想させるからだと思います。上田はこの歌について「あまりに抒情的で古風だ」と述べています。その自己解釈は正しいのですが、ただ「光をひきて谷にゆくかも」には、再発の恐れのある病を抱えた命を観照しようとする思いと、自分の命を突き放しながら見つめようとする気持ちがあったのだと思います。予後を養うということで言えば、今の私は上田と一緒であり、哀しみとともに感じていた安らぎが理解できるのです。
一きわ花は散りしきる
最後の教誡のこされて
いまし静かに釈迦牟尼は
涅槃の眼とじたもう
「大聖釈迦如来涅槃御和讃」の四番の歌詞です。お釈迦さまの終の様子が描かれています。ともすれば情景ばかりに目がゆきがちですが、お釈迦さまの命でさえ、無常の中にあったという事実を感じてもらいたいと思うのです。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄