梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑲
昨年、角川書店の短歌総合誌『短歌』の読者歌壇の選者を担当しました。投稿者の年齢は10代から90代までと幅広く、ひと月に約2500首もの作品が送られてきました。その中から、「特選」「秀逸」「佳作」に選り分けるのですが、見落としはないか、どちらを「特選」にして、どちらを「秀逸」にするかなど、なかなか悩ましいものでもありました。選をしながら思ったのですが、時間を感じる歌に、佳い作品が多かった気がしました。
歌うべき対象を観察するために、対象物に一歩近づく人が多い中にあって、逆に一歩下がる人もいます。近づけば近づくほど、現実的な手触りをもつ歌が出来ますし、一歩下がれば実感の希薄な歌になります。どちらがいいかという話ではありませんが、近づけば近づくほど歌からは時間が失われてゆきます。
私たちが目にしている現実とは、物象そのものではありません。物象とは、現実の表面に過ぎず、物象に「変化」と「永遠の相」を付与しているのは時間です。すべての物と現象をつつみ込みながら流れてゆく時間。物象をあらしめて、とどまることなく流れてゆく時間。現実とは物象の姿をした時間なのです。
伝えましうけつぎ来たり有難や
五葉に開く道のひとすじ
「達磨大師御詠歌」の歌詞です。お釈迦さまに始まった仏教は、多くの祖師の苦労によって私たちに伝わってきました。
お釈迦さまから数えて28代目の祖師である達磨大師が中国にわたり、「禅」の教えを伝え、5つの法系に展開されたものの1つが、今の曹洞宗の教えになっています。ここには壮大な時間のドラマがあり、今なおそれが引き継がれていることに驚きを感じます。お釈迦さまや達磨大師の教えはこれからも伝えられていくでしょう。
無常のただ中にあって、禅の教えを実践し、そして尊く生きることこそが、広く教えを伝えてくださった方々への恩返しになるのかも知れません。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄