梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑱
私は2年前に左肺上葉摘出手術を受けました。その3日前に入院し、手術の前日まで検査が続き、想像していた以上に辛かったことを覚えています。
手術は午前10時に始まりました。ストレッチャーに乗せられて手術室に向かい、本人確認のために氏名と生年月日を答えると手術台に移され、緊縛され、麻酔が気道に挿管されたかどうかはっきりしないうちに、私は自分を失い、瞬時にして目が覚めたときには手術は終わり、病室のベッドに戻っていました。
予定では3時間の手術でしたが、実際に終わったのが夕方になったのは、手術中に見つかった新たな病巣の処置に手間取ったためであることを後で聞きました。
手術後の苦痛は覚悟の上として、意識を失っていた6時間以上の奇妙な時間のズレは、不思議な体験として、今でも私を無常の思いに誘います。手術において私が体験した時間の感覚は、睡眠ではなく、実は「死」と言ってもいいような気がするのです。睡眠は現実の時間を内包しますが、死は異なります。変な例えですが『グリム童話』の白雪姫の眠りは、夢を絶った絶対の無のうちに経過し、その目覚めの感覚は、一瞬のうちに過ぎてしまった、私自身の手術中の時間と似ている感じがするのです。
病気からの回復は、死病と覚悟したものからの回復であることに加え、手術という象徴的な儀式を経て、生きている事実を一層深く実感させてくれるものになりました。私は手術によって死の疑似体験をしたと思っています。一瞬にして生と死が入れ替わる世界に存在する自分であることをつくづくと感じました。
昨日の人は今日はなく 会えば別るる世のならい
夜半のあらしに散る花の もろきは人の命なり
「無常御和讃」の二番の歌詞で、常のない人の命の儚さが詠われています。頭では理解している無常ですが、その意味をわがものにするには、今を精いっぱい生きなければならないのでしょう。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄