梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑯
「諸行無常」でよく引用されるのが、『平家物語』の冒頭の部分です。『平家物語』は鎌倉時代に平家の盛衰を描いた軍記物語です。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす」の冒頭の部分を知っている人も多いと思います。
「祇園精舎の鐘の音には、万物は流転し、同じ状態にとどまるものはないという響きがある。お釈迦さまが亡くなった時に白く枯れたとも言われる沙羅双樹には、全てのものは必ず衰えるというこの世の道理が示されている」という意味になりましょう。そしてその様子は「大聖釈迦如来涅槃御和讃」にも描かれています。
双樹の沙羅に咲きみちて ま白き花は匂えども 散るを定めの花なれば はらはら散りてすべもなし
『平家物語』の前段の文章は、お釈迦さまの「諸行無常」の教えが意識されています。「諸行無常」は真理であり、お釈迦さまの基本的な教えの一つです。
人も物も、人の心も、人と人の関係も移り変わります。昨日と今日は違いますし、明日はまた別の姿に変わります。美しい花もいつかは枯れてしまいますし、私たちの命にも限りがあります。時々大きな自然災害が発生し、大切な命を失う人もいますし、不慮の事故によってこの世から去ってしまう人もいます。私たちはその惨状を目にし、無常を実感しているはずなのですが、それでも未来を夢みるのはなぜなのでしょうか。
「生老病死」の四苦を考えると、最後には死しか残りません。「生」は遠い未来の死へのスタートであり、「病」と「老」は死への接近を意味するものです。今、この世に存在している人に死を経験した人はいません。私たちは肉体的、精神的苦痛を予知して苦しんでいるに過ぎません。「自然の一部なのよ、私はもう。雪が降った、雨が降ったというのと同じよ」は、美術家の篠田桃紅さんの言葉です。自分の死は、自然現象に過ぎないと言っています。いつかはこんな境地に至ってみたいものです。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄