梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑭
誰もが身近な人の死に遭遇します。自分が歳を重ねれば重ねるほど、身めぐりから大切な人が消えてゆきます。特に家族などの縁に近い人の死はショックな出来事であり、残された人の中には「一生涯、この苦しみを乗り越えられないだろう」と感じる人もいるでしょう。しかし人間にはコーピング能力というものが備わっています。コーピング能力とは、悲しみや苦しみを早く乗り越えようとする力です。
自分の死は、自分にとって最悪の出来事かも知れませんが、仮に私が死んだとしても、私の家族は時が経てばその死を乗り越えるに違いありません。私についての記憶は大切にされますが、いずれ風化していきます。私を知っている人がいなくなり、やがて話題に上がることさえなくなるでしょう。
私は生きて、忘れられる。一見寂しいことのようにも思いますが、本当に寂しいことなのでしょうか。死は悲しいことなのでしょうか。果敢ないことなのでしょうか。私たちはその問いについて正面から考えなくてはいけないと思います。
おくれ先だつことあれど 往きて帰らぬ旅ぞかし
此の身此の世に救わずば 何れの世にか救うべき
「無常御和讃」の三番の歌詞です。この世に存在するものの始終は不如意であり、自分の死を終局において考えた時、その他のことは全て「あとさき」にしか過ぎません。「おくれ先だつことあれど」とは、そのあとさきを言っています。如何なる一生を送ろうと最後に待ち受けているものは死です。命を無駄にしないための覚悟が「此の身此の世に救わずば 何れの世にか救うべき」の歌詞によって表現されています。
私たちに生ずる全てのことは、軽んずべき出来事として受け入れなくてはなりませんし、一切の計らいを捨てて、ただ端的な事実としての「われ」に身を置かなくてはならないのです。不平不満を言っても何も解決しません。より良い生き方をするために努力するだけです。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄