梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑬
私は短歌を作ります。大げさに思うかも知れませんが、短歌は私の人生そのものです。時間や人、あるいは自分の周りを取り巻くものを愛惜する心に基づいて、命短く移ろうものの行方に心を寄せる。一回限りの自分の人生を時の流れのままに押しやるのではなく、常に新しいものの訪れとして受け止め、そして迎えるという喜びがあります。
花には花の、風には風の、海には海の声があります。短歌を作っていると、ふとした瞬間にそうしたものの声が聞こえてくることがあり、今を生きている喜びと幸せを実感します。
ここ10年ほどの間に、私は身近で大切な人たちを失ってきました。両親、叔父や叔母、或いは従兄弟といった血縁の人や、親しい友人などです。それは自らの年齢のもたらすことであり、人は元々「死への存在」として避けることの出来ない運命を背負っていますから、いつ何時、命を奪い取られたとしても決して怪しむには足りません。しかし、私たちの日々の関わりは深く、そして篤く結ばれています。あの人この人を偲んで、私の嘆きはいやさらに深いものがあります。
昨日ありしは今日は夢うつつに見ゆるみ姿は
心のなかの影にして合わせる掌こそ真なる
「追善供養御和讃」の二番の歌詞です。すでにこの世を去った人を思い浮かべ、その面影に手を合わせる自分の姿が歌われています。身近な人の死を通して学ぶことはたくさんあります。死は亡くなった人の遺言と言っていいのかも知れません。死の意味を正しく受け止め、自分の生き方に反映させることが出来るのであれば、亡き人に対する何よりの供養とも言えましょう。
人生は均等な速度をもった時間の流れではなく、徐々に加速度を得て落下する物体のようなものです。何歳になっても人生はやり直せますが、自分にどれだけの時間が残されているのかは分かりません。先ずは「今」を一生懸命に生きることが大切です。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄