【人権フォーラム】大韓民國人長崎県壱岐市芦辺港遭難者日韓合同慰霊祭に参加して

2023.12.13

2023(令和5)年10月17日、長崎県壱岐市芦辺浦は清石浜に建立されている「大韓民國人慰霊碑」、さらに天徳寺(曹洞宗)におきまして「大韓民國人長崎県壱岐市芦辺港遭難者日韓合同慰霊祭」が営まれました。新型コロナウイルス感染症の影響により、4年ぶりの法要となりましたが、韓国・慶州市の水谷寺の僧侶らと慶州市議会議員の一行、九州管内や有縁の曹洞宗僧侶と地元国会議員、壱岐市関係役職員をはじめとする市民など、関係者約60名が参列しました。

1945(昭和20)年8月、終戦当時、日本に在住していた朝鮮の人々は約240万人いたといわれており、多くは朝鮮併合以来の移住や徴用、徴兵で渡ってきた人々でした。日本の敗戦は、過酷な労働下において「解放」を意味し、多くの朝鮮の人々が祖国への帰還を目指しました。引き揚げ船には、朝鮮半島などからの日本人が帰国する復路便などが利用されましたが、各地の港は乗船できない朝鮮の人々であふれ、戦後の混乱のなか、船を自前で調達して海を渡る人も多く、海難事故が相次ぎました。

法要の導師を務める天徳寺西谷徳道住職

同年10月10日深夜から未明、最大瞬間風速51.6メートルを記録し、九州から中部地方にかけて甚大な被害をもたらした「阿久根台風」が、引き揚げ船を直撃しました。朝鮮半島に向かう木造船では、数十名の生存者を除き、約200体ものご遺体が港内に浮き、海が黒くなったと伝えられています。ご遺体は事故現場に近い清石浜に仮埋葬され、1967(昭和42)年には埋葬遺骨を掘り出して荼毘に付し、地元の有志らにより建立され「大韓民國人慰霊碑」の下に納められました。もともとは壱岐島の天徳寺住職や地元住民らによって供養されていましたが、1998年からは韓国の水谷寺と天徳寺で1年ごとに合同慰霊祭を営むようになりました。

このご遺骨を巡っては、朝鮮人徴用工との予断から市民運動をきっかけに収集され(1983年ごろ)、事実誤認が判明したまま国内を転々とした後、日本政府は「管理しやすい」という理由から2003年より埼玉県・金乗院(真言宗豊山派)に委託した経緯がありました。

しかしながら、祖国より遠く離れた地にあることに心を痛めていた天徳寺・西谷德道住職は、「できることならば、ご遺骨は祖国へお還ししたい。それが叶わないのであれば、せめて長年供養を続けてきた天徳寺に移送したい」と念願していました。その相談を受けた宗門では、金乗院への理解を得るべく参詣を続け、天徳寺とともに政府に嘆願書の提出をしてきたところ、2018年5月31日、ようやく壱岐島天徳寺に移送された由来があります。

慰霊法要の様子

西谷住職より「この慰霊法要は、1998年からは韓国の水谷寺と仏国寺の僧侶の方々と天徳寺と互いに合同慰霊祭をともに営んできた。コロナ禍から4年ぶり開催となったが、今年の8月15日には仏国寺の元住職さまは亡くなられた。恐らく、ご遺骨が祖国に帰られないことに深く心を痛められただろうと感ずるとともに、是非、来年の慰霊法要は、一日も早く韓国にお帰りいただくなかで、祖国で修行しなくてはならない」と、思いが語られました。

また、山本啓介参議院議員は「天徳寺さんのことは幼少のころから存じており、もちろん、ご遺骨返還の要件も承っている。今秋の国会会期中の機会にて、上川陽子外務大臣に対しては、日韓交渉の議題として最優先に交渉するよう要請していきたい」と、話されました。2004年の日韓首脳会談から朝鮮半島出身者の遺骨返還を巡っては、政府間交渉が滞るなか、まったくの進展が見られていません。

78年前、念願の祖国帰還を目前として無念にも多くの生命が犠牲となりました。ご先祖さまを思う宗教者であるならば、戦後の悲劇として語られる、ここ壱岐島芦辺湾での歴史の真実に耳を澄ますとともに、ご遺骨の安寧と即時返還への思いを強く持ち続けるべきであります。また、今日ある、長期化するロシア連邦によるウクライナ侵攻やパレスチナ自治区での地上戦拡大など、民間人を含む多数の死傷者の報道は心痛の極みであり、個々の生命や家族を引き裂く悲劇であります。宗門が堅持すべく誓った「自も他も傷つけない」という立場を貫き、戦争の遂行や暴力・破壊への誘因に結びつく思想や社会行動に同意しないという「非戦」について、再び自らに問いかける機会となりました。

人権擁護推進本部 記