「ミニマリストと禅僧との対話」(4)~他者を通して得られるもの

2023.11.06

前回の記事では、行いを修めることで調う心についてお伝えしました。今回は、他者のために生きることが自分の幸せにつながることについて考えます。

■自分本位の心を去って

宇野  佐々木さんのご著書に書かれていた「経験」という言葉が強く印象に残っています。

佐々木 ミニマリズムの本を出した後に、「モノより経験」を合言葉に、経験を重視していろんなことを体験してきたんですが、5~6年経つとかなりのことを経験してしまったなという感覚があるんです。自分が同じような経験を繰り返すのではなく、初めて体験する人の手伝いに回るころなのかなとか、自分1人のためだけにはうまく生きられないなと思うことが増えました。

宇野  他者との関わりの中で何かを得ていくという考え方は大事ですよね。

佐々木 自由に行動するのが好きだったけど、1人で出来ることもたかが知れてるし、満足してしまった部分がありますね。

宇野  モノを所有する満足から手放す豊かさに移って、経験の満足も有限だとすれば次はなんだろう、という感じですね。1人では実現できないという感覚はすごく重要だと思います。観音さまとかお地蔵さまのことは聞いたことがあると思うんですが、正式には観世音菩薩かんぜおんぼさつ地蔵菩薩じぞうぼさつという「菩薩」で、他にもさまざまな菩薩さまがいます。

この「菩薩」は困っている人がいたらほおっておけない。その人の助けになれることを自らの存在意義に据えている存在なんです。相手の安らぎや幸せが自分の存在意義そのものなので、1人では幸せになれないんですよね。

佐々木 そうだと思いますね、本当に。

宇野  私たち仏教徒は、菩薩を拝むだけでなく、自分自身が菩薩に憧れ、成っていこうと考えます。つまりは利他りた的な存在であろうということなのですが、この意義がとても重要です。「利他」というと「自分のことより他人のことを優先しなさい」というように、ある種道徳的なものとして語られることが多いですし、基本自分が損をするように受け止められがちなのですが、仏教の解釈はそうではありません。自分が幸せになる方法は、「抜苦与楽ばっくよらく」と言って、他者の苦しみを取り除き安楽を与えることの中で実現するんです。

佐々木 働くことの意味はお金を得るためだけじゃなく、人の役に立ったり、そのことによって人と繋がったりすることにあると思います。現代は、たまたま仕事の対価としてお金がもらえることになっているけど、本来はそういうものではないと思っています。例えば、一緒に狩りをして食を得ることは、お金を得るためじゃないですよね。仲間と何かを達成することで連帯意識もできただろうし、そうやって「生きる」ということがあったと思うんです。宇野さんの本にも、典座てんぞという修行道場で食事を担当する役職の老僧の話が出てきますよね。道元禅師は、中国で出会った二人の老典座に、「食事の用意なんて他の人に任せればいいじゃないですか」とか「こんな暑いときじゃなく、もっと涼しくなってからやればいいのでは」と言ったけど、「人がやっては自分の修行にならない」「今やらなくていつやるのか」などと返され、言葉がなかったと述懐されていると。人のために働くことは修行でもあり自分のためでもあり。働くって、そういうことなのかなと思います。

宇野  人は社会的な動物だから、人との関わりを通して、誰かの役に立つことの中に幸せを見出すということなんでしょうね。

■迷いの中に行いをたてる

宇野  ミニマリストにとっては人間関係も多すぎない方がいいんですか?

佐々木 僕はたくさんの人と付き合えないから、減らしてもいいんだよって書いた気がするんですけど、最近は、少し安直だったなとか、だからいろんな人と繋がれていないのかなとか思ったりしてますね。効率とか合理性を大事にし過ぎていたという反省もあります。「ミニマリストって結婚できませんよね」とか、「あんな習慣を組み立てる人は、他の人と一緒にいづらいんじゃないか」と言われるんですが、年を重ねるごとに、いろんなものを許容して人とつながれた方がいいんじゃないかと思うようになりました。

宇野  自分自身の結婚はイメージ出来ているんですか?

佐々木 2、3年前まで全然イメージできなかったんですよ。1人が好きだし、自由に生きられればいいと思ってたんですが、ある程度の経験をしたなと感じたときに、誰かと一緒に住んでみようかとか、家庭を持ってみようかという考えが出てきました。

宇野  次のフェーズに入ってますね。

佐々木 許容というフェーズに変わった感じですね。

宇野  個として完成に近づいていくというイメージじゃなくて、広がりを持つ柔軟な方向に進もうとしていることが伝わってきます。

佐々木 悟りに終わりがないということと一緒だと思うんですが、完成した状態はやってこないですね。習慣もいつかは途切れるので、習慣にし続けようとする態度こそが習慣の正体で、完成という感じもないですし。好きなモノや興味も変わるし、生活環境も変わっていくし、ずっとジタバタしていくんだなと。

宇野  悟りを得たら、その後の人生では迷いも苦しみも無くなると思っている人がいますが、実はそうではなくて、お釈迦さまも「私だって煩悩は死ぬまで無くならないよ」と言っています。そして「すべては移り変わっていくものだ」とも言っています。

佐々木 その方が安心しますよね。「ミニマリストってこうなんでしょ」と一緒で、「お坊さんってこうでしょ」って言われませんか?

宇野  私は、「少しでもお釈迦様に近づける瞬間があればいいな」というイメージを人生の軸にしています。お釈迦さまというと何か超越的な「絶対神」のように思われることがありますが、私がイメージするのは2500年前に生身で生きたお釈迦さまで、いって見れば「憧れの先輩」のような存在です。

佐々木 宇野さんはどういうふうに仏教を研究されているんですか?

宇野  「学習」っていう言葉がありますよね。「学ぶ」は頭で理解すること、自分の中で納得して行動に変わっていくのが「習う」ということになります。経典などに書いてあることはその時代の、その社会の中で説かれたものなので、その全部を今の自分に適用できるわけじゃない。読解して自分なりに受けとめたことを発信すると、今の時代の人に伝わるんだと思っています。

佐々木 教えを守るとか理解するだけじゃなくて、創造する部分もあるんですか?

宇野  その素養を身につけるのが「修行生活」で、「型」の修行をした体験を踏まえて経典を学び、理解と行動につなげていくことだと思います。どういう自分がみっともなくて、どういう自分が仏らしいのか。ご飯を食べ散らかして残す自分はみっともないとか、水一滴を大事にできる自分は仏らしいというように、仏らしくありたいという目標があれば、答えは今生きる私の行動の中にしかないわけです。

佐々木 なるほど、「仏だったらどうするか」ですか。

宇野  だから2500年前のお釈迦さまが、今私のそばにいるように想像できるだけの知識を経典から得て、お釈迦さまや歴代の師匠が行ってきたものに近い体験を修行という形でやることで、自分をお釈迦さまに近づけていく感じですね。

佐々木 それは面白いですね。人間には自分ならではのものを創造する喜びがあると思っていて、誰かの教えを習うだけじゃない喜びがそこには含まれていそうです。宇野さんは、大学時代生物学専攻とのことですが、理系的な面から仏教を研究されてるんですか?

宇野  私はお寺の生まれ育ちですが、生物学に関心があり大学時代は理系を専攻しました。その後仏教の学びを得ていくわけですが、後で考えるとお釈迦さまの言葉は極めて理論的で、理系的なアプローチだと思っています。ちなみに佐々木さんの文章や考え方も、お釈迦さまと同じ匂いを感じます。

佐々木 意外です(笑)

宇野  お釈迦さまの悟りの論理の基本は「一切皆苦いっさいかいく」で、人間が生きることは苦しいんだってことを理解したうえで、それがなぜ苦しいのかを分析してくことから始まるんです。苦しさの原因を分析し追究して、原因が解消可能と理解して、そのためのプログラムを実践するのが、お釈迦さまの示した仏道修行なわけです。

佐々木 そう言われると、ぼくの本の構成と確かに似ていますね。

宇野  人間は弱い存在だし、自分も弱いと分かっていたからお釈迦さまはその分析が出来たわけです。またお釈迦様は遺言で「自分自身を頼りとし、私の教えをよりどころとして、自分の修行を完成させなさい」と言っています。自分は教えを示したけれど、考え実践するのは君自身だからね、ということです。

佐々木 それが仏教の一番好きなところです。ミニマリズムも、どうしても1人で出来ない人がいて。自分で考えて、それぞれのミニマリズムがあったらそれでいいじゃないかと思うんですが、誰かに教えを請いたい人が想像していたよりも多かった印象です。

宇野  それは仏教教団も同じで、当時の弟子たちが修行のやり方に悩んではお釈迦さまに教えを受けていたんです。お釈迦さまが亡くなった後、弟子たちはお釈迦さまの教えを確認しながらグループで修行をしていくことになります。お釈迦様だったらこんな時どう言っただろうねってことをみんなで考えながら、お互いを支え合っていくみたいな。お釈迦さまは、今でいうとサークルの創始者みたいな感じで、教祖ではなく自分もメンバーの一員だって言い方されてるんです。だから自分なりのミニマリズムを考えるグループがあったらいいって思いますよね。

 
■肯う

宇野  最後にお聞きしたいのですが、佐々木さんは自己肯定感というものをどのように捉えているんですか?

佐々木 「自己肯定感」という言葉の扱いがすごく難しいなと思ってるんです。習慣の本を書いたときは、自己肯定感がキーワードだと考えていました。習慣を達成したときには自分のことを認めてあげられるから、それが意志力の源泉になると思ってたんです。でも何かを達成出来る能力があるから自己肯定感が芽生えるとなると、限られた人しか認められないことになってしまいます。出版後、うまく出来ない人を目の当たりにして、能力のあるなしではなく人をどう肯定したらいいのかということをよく考えています。お金がなくても出来る和顔施(わがんせ/和やかな顔で接する)みたいなこととか、誰でもできそうなことで人を認めてあげることもできると思うし、今はそういうことの方が気になってます。

宇野  さっき「菩薩になる」って言いましたけど、それは100円でも、一言でも、席を譲るだけでも出来ます。仏に成るというとすごい難しそうですけど、どんな人でも瞬間瞬間で仏に成りうるんだっていうのは、佐々木さんの姿勢と同じ感じがします。自己肯定感を高めるということに関して、それが出来ない人もいるから、その人たちをどうすれば良いかと考える。より多くの人がいろいろな形で自己肯定感を高めていける方法を、角度を変えて本にされているし、今後もしていくつもりなのかなと感じました。

佐々木 人はそこに存在しているだけで認められるべきだと思うので、存在の肯定とは何なのか、出来る出来ないをどう捉えたら良いか、考えていきたいと思っています。

 

【対談を終えて】

ミニマリズムと習慣について話をする中で、改めて祖師方が伝えてきた教えを振り返る。ミニマリズムは貧学道、習慣は戒と言えようか。貧学道は、仏の道を修めようとする者は財物を貪らずに修行すべきであるという教え。戒とはサンスクリットの言葉で「シーラ」といい、「良い習慣」という意味がある。貪りを離れ、行いを修めることで心を調え、それを習慣化することで仏の姿を自身の上に証していく。迷いの多い日々の中で原点に帰るありがたい対談でした。対談を受けてくださった佐々木さんに心から感謝申し上げます。

 

佐々木典士さん初の著作『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は26カ国語へ翻訳、世界累計で80万部突破。習慣についての著書『ぼくたちは習慣で、できている。』は12カ国語へ翻訳されている。
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