梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑪
昨年、私は手術をしました。病は深刻なものであり、再発の危険があるので今も薬による治療が続いています。この世に在って絶対の主人公である自分が消えてゆくという事実は、私には絶望でしかありませんでしたが、手術後少しずつ体力が回復し、普段の生活に戻ってゆく日々の喜びは何ものにも代えがたいものでした。
手術によって一旦は癒えたと言いながら、病気は私の人生の景色を著しく濃厚なものにしました。死とはなにか、生きるとはどういうことか、それまで真剣に考えることのなかった問いの前に、私は立ち止まらなくてはいけませんでした。「生老病死」はこの世の常ですが、いざ自分の身の上に降りかかってくると、苦しみ以外の何ものでもありませんでした。
その頃、私は吉田兼好の『徒然草』を読み始めました。徒然草で兼好が切言していることはただ一つ、「先途なき生」です。人生は有限であり、しかも明日知れぬ命です。「ただ、今の一念」こそが徒然草の唱導する生き方で、死までの切迫した生の時間を、時間そのものになることによって生き切ろう、と兼好は訴えています。
私は兼好の生き方に魅かれました。所縁を放下し、俗と離れた生活を送っていましたが、宗教によって来世を頼むといったことはありませんでした。現世に残り、この世の生を、一念に親しむことだけを願っていました。来世とか、彼岸といった超越的で宗教的な救済を抜きにして、無常に向き合おうとしている姿が私にはとても新鮮に映りました。
ひとたびは涅槃の雲にいりぬとも
月つきはまどかに世を照らすなり
世を照らすなり
「大聖釈迦如来涅槃御詠歌」の歌詞です。お釈迦さまは、みずからの教えを実践することで、全ての人が人生の苦しみから解放されることを願っていたに違いありません。「月はまどかに世を照らすなり」には、お釈迦さまの教えを通して私たち自身が輝くことへの願いが込められており、それはお釈迦さまの励ましと言えるのかも知れません。
秋田県禅林寺 住職 山中律雄