「ミニマリストと禅僧との対話」(3)~習慣によって心を調える
前回の記事では、不要なモノを手放すことで現れる自由や感謝の念についてお伝えしました。今回は、「型」を大切にする曹洞宗の修行、行いを修めることで調う心について考えます。
■型を通して心を調える
宇野 佐々木さんは、『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』『ぼくたちは習慣で、できている。』という2冊を出版されていますが、どちらも自分自身を好きになるための方法論が書かれているように感じました。「ミニマリズム」や「習慣」そのものに価値があるのではなく、その先にある自己肯定感を大切に目指しているのだと受け止めたのですが、いかがでしょうか?
佐々木 そうですね。ただ、今ではいろいろと考え方も変わったところもあります。極限までモノを減らしたことに意味はあったわけですが、行き過ぎていた部分もあったと思うし、習慣の本に関しても、今から見るとすごく肩に力が入っているなと思っています。
宇野 そんな風に感じてらっしゃるんですね。意外ですが興味深いです。
佐々木 出版から5年ぐらい経ちますから。あそこまで徹底しないと自己肯定感を得られない状態も、何か違うのではないかと思うところもあります。自分は片付けが出来るようになって綺麗な部屋に住むことができ、習慣も調えることが出来たから自分自身を認められるようになったけど、その基準を他の人に当てはめて良いのか。頑張っても出来ない人もいるし、そういう人をどうやって見てあげたらいいのかと、よく考えるようになりましたね。自分に対しても厳しすぎたかなと思う一方、最近、緩み過ぎだなとも思っていたので、今日の対談はありがたいです。
宇野 佐々木さんの考え方は入り口のハードルが低くて、基本的に人間は弱いけど、そんな弱さも含めて自分を好きになる方法、というふうにも読めます。
佐々木 自分が好きになれないという相談って多いんじゃないですか? 日本人特有なのか、どうしてこんなに自分のことが好きになれないんでしょうね?
宇野 「自分を好きになれない自分とどう付き合うか」というような話になったときに、部屋は汚いけど外出のときだけ格好つける自分や、悪い習慣が身についている自分、そんな自分を変えたいと思う人は多いでしょうね。佐々木さんの文章は、出来て当たり前ではなく、出来なくて当たり前のところから始まって、いろんなことを教えてくれているなと思いました。
佐々木 モノを手放す方法なんて学校でも教えてもらわないですよね。おもちゃが大好きな小さい子どもに「モノは少ない方が良い」と言ったって、わからなくても仕方がない。人間って、そもそもは片付けとか出来ないものだと思うんです。習慣も同じで、基本的には身につかないものという認識があるんですが、そうしたことを禅ではどのように捉えるのでしょうか?
宇野 禅の修行では、型を通して自分の心を調えていきます。洗面や食事作法、法要儀式なども、型を身につけるまでは苦労しますが、身につけば後は考えなくてもできるようになります。型を通して内面を調えていく感じですね。
佐々木 自分にはルーチンワークや型が合っているんですが、修行されているお坊さんの中に、どうしても合わないという人はいるんですか?
宇野 いると思います。でも修行道場の一日は時間で決まっています。その時間になれば自動的に、しかも皆で一斉に動くので、気持ちが入る、入らないという余地がありません。時間という引き金が全員一緒の義務になって、一日が始まっていきます。
佐々木 どうしても朝起きられない友人がいて、そういう人が修行に行ったら大変だろうなと思います。
宇野 1人では無理でも、集団だから出来るということはありますね。「大衆の威神力」という言葉があって、一緒に修行する仲間には、偉大な力が宿るという意味なんです。道場による違いもありますが、私が修行した大本山永平寺では、夏だと朝3時半起床です。1人で3時半に起きようと思ってもなかなか出来ませんが、修行道場では皆が一斉に動くので、エネルギーを使わなくても、修行の流れに乗ることができます。
佐々木 完全に脱落してしまう人はいないんですか?
宇野 途中で修行をやめて帰る人もいますが、1回流れに乗れると楽になります。
佐々木 まだお若い方だと、それこそ乾さんのように修行の道について思い悩む人もいるんでしょうか?
乾 人によりますよね。高校や大学を卒業したら修行に行くと決めていた人もいるし、仕事を辞めて修行に行く人もいるし。どのタイミングでその生き方を選ぶかという話なんだと思いますが、僕自身は、少しずつ自分の選択に納得してきた感じです。
宇野 佐々木さんは、習慣を構成する要素として、「トリガー(きっかけ)・ルーチン(決まった行動)・報酬(満足感)」の3つについて書かれてますよね。それを読んで気づいたんですが、修行生活では行為のトリガーが決まっているし、ルーチンワークも決まっているんですが、それによって得られる喜びや安らぎという報酬が見えにくいので、その環境から離れると続けにくくなるんだなと感じました。まぁ、元々修行に報酬があるという考え方はしないんですが。
佐々木 一般の人でも半年とか、修行したい人は修行できたらいいのにと思うことがあります。それこそより良い習慣を身につけるためにというか。
宇野 できますよ。誰かの弟子になって髪を剃り、衣装ケース1個分ぐらいの荷物も持って行くことになります。
佐々木 なるほど、弟子になるんですね。何を持って行ってもいいんですか?
宇野 着替えや経典など、持ち込んで良いものは決まっていて、それ以外はダメですね。
佐々木 ゲーム機とかダメですよね?
乾 点検があるので、不適切な物があれば没収されます。
佐々木 それ面白いです(笑)
宇野 修行生活にはテレビも携帯電話もないので、そうしたものに振り回されないで済むということはすごく感じました。
佐々木 本当に生活が乱れてしまい、1人ではどうにもならないと考えて、前向きな意味合いで入院した友人がいます。入院中は、スマホも預けるし三食ちゃんと決まった時間で出てくるし、消灯の時間も決まっていて、それですごく調子が良くなったそうです。僕は「そんなの自分で出来るでしょ」って思っていたところがあるのですが、どうしても出来ない人もいて、そうした環境の力を借りるのもありだなと思いました。
■磨くことで現れるもの
佐々木 自分を好きにならなくていいとか、そういう教えはあるんですか?
宇野 仏教では、「仏性」と言って、仏の性質が誰にでもあると捉えます。それが三毒と呼ばれる「貪り・瞋り・痴かさ」の煩悩で汚れていくという考え方で、その汚れが習慣になっていくという感じです。
佐々木 もともとはキラキラしたものなんですね。
宇野 引き算していけば、本来備わっているキラキラしたものが出てくるというのが仏教の発想で、修行というのは、積み上げるものではなく磨く作業なんです。
佐々木 なるほど。
宇野 仏教では、行為は身口意を通して表れると考えます。身はやったこと、口は言ったこと、意は考えたことで、行為が三毒に汚されていると、それが行いの癖になると考えます。習慣化された行為の癖は自分に染み付いて負のスパイラルになるわけです。
佐々木 悟りというものを考えたときに、みんなが煩悩にまみれている中で、自分1人が磨かれて悟るみたいな形は何か違うのだろうなと思うようになりました。欲望にまみれているような人も実は悟りに向かっているのではないかというか、その中には仏性が現れているというような考え方なのかなと思ったのですが、いかがでしょうか?
宇野 汚れているときはただただ汚れているっていう感じですね。お風呂や歯磨きが大事ということと似ているのですが、中にキラキラしたものがあるのは全く見えない状態だけれど、きちんと磨くことで本来の光が戻ってくると。自己肯定感の話に繋げると、自分の中にあるキラキラした仏が現れることは、自己が肯定されていくということで、それを邪魔しているのは、汚れであり、悪い習慣だということになります。
佐々木 誰もがが仏になれるっていう考え方なんですもんね。
宇野 行いによって仏になれるし、それは引き算だから、佐々木さんの考えにとても近いなって思います。生きにくいなという思いがあって、その原因が自分の悪い習慣だとすれば、それを変えることで自分が好きな自分になれる。自分の子どもに身につけてほしいと思う習慣ができるようになったら、自分のことをもっと好きになれる。佐々木さんの本にも通じているのではないでしょうか。
佐々木 どうやったら人って条件なしに認められるんだろうっていうのは、今後の執筆テーマかもしれないです。
宇野 自分って無条件には肯定できないですよね。自分自身を無条件に肯定できるほど、目をつむってはいられないというか。だから往々にして何かで紛らわすことになるんですけど、佐々木さんが自分で自分をだまさずに、肯定できる自分になっていく方法を書かれたことって、お坊さんが経典を学んで、お釈迦様みたいになりたいって思うことと、すごく似てる感じがあるんですよ。
佐々木 世の中は煩悩にまみれていて、何の修行もせず、内面が調っていない人もたくさんいるんだと思うんですけど、その人たちにも仏が宿っていて、その人たちも仏になろうとしている段階であるということを認めてあげることが出来ないと、それこそ悟りではないのかなと思ったり。
宇野 その人自身が気づくきっかけを何らかの形で提示できればいいし、気づいたんだったら、一緒に歩きながらサポートしたいし、それによって仏らしくなれたなっていう喜びも、また共有したいと思うんですよね。
【宇野の編集後記】
習慣は電車が動き始める時のようなもので、止まっているものを動かし始めるには大きな力がいるけれど、一度動き始めた事柄は慣性の力でそのまま動き続ける。良い行いも悪い行いも。それが習慣になることを心得ておけば、自ずと行動は変わってくるだろう。「習慣化するには目標のハードルが低いことが重要なんです。例えば腕立て伏せなら目標1回とか。それを毎日続ける事こそが大切なんです」という佐々木さんの言葉は、初めは冗談かと思ったが、習慣の本質的価値を言い得ていると納得させられた。
佐々木典士さん初の著作『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』は26カ国語へ翻訳、世界累計で80万部突破。習慣についての著書『ぼくたちは習慣で、できている。』は12カ国語へ翻訳されている。
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