梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】②

2023.02.01

「お前も死ぬぞ 

この言葉は、岐阜県郡上市のお寺の掲示板に掲げられたもので、「お寺の掲示板2018」の大賞を受賞しました。そこのご住職は「人生の真実のあり方を端的に教えるのが仏教。死を人ごとに思いがちだが、死は誰にも平等に訪れる。そのことに目覚めることで、命や生き方を見つめ直してもらえれば」と言っています。

昨日の人は今日はなく
会えば別るる世のならい
夜半よわのあらしに散る花の
もろきは人の命なり

「無常御和讃」の二番の歌詞です。「最近まで姿を見かけていたのに、急に病気が進んで亡くなった」「思いがけない事故で、尊い命を失った」。あるいは、「長い間床に臥せていた人が、ゆっくり枯れるように去っていった」、という話を時々耳にします。

昨日まで元気だった人が、今日はこの世にはいない。いつかは別れなければならないということは理解しているものの、ひと夜の嵐に散ってしまう花々のように、人の命とは儚く切ないものです。

人の死は様々で、落葉の裏おもてが翻るように、一瞬に生と死が置き換わる人もいれば、時間をかけてこの世から去ってゆく人もいます。ただ、如何なる経過をたどろうと、全ての人の出口に待ちかまえているのは「死」だけであり、私たちはその事実を正しく受け止める必要があります。

修証義しゅしょうぎ 』は次のように始まります。

しょうあきらめ あきらむるは 仏家ぶっけ一大事いちだいじ因縁いんねんなり

生きること、そして死を正しく認識することが、仏教徒にとっての一大事である、という意味です。

私たちは代えがたき生を受けています。しかし、その生の裏側には常に死が潜んでいます。『修証義』の冒頭にこの一節が置かれていることの意味は大きく、ここが理解出来ないと、その先の教えには進めませんと言っているのに等しいのです。生と死は表裏一体です。その事実を踏まえ、どのような日暮しが仏の教えにかなうのか、考えていきたいと思います。

秋田県禅林寺住職 山中律雄