梅花流ことはじめ【その23】梅花流新譜成立
権藤円立による梅花流オリジナル曲の作成、詠唱・作法を曹洞宗の教えに引き寄せて意味づけした『梅花流作法規範』の制定。これらは密厳流ご詠歌の強い影響下から、曹洞宗ご詠歌へと自立しようとする歩みでした。そしてそのもうひとつが梅花流新譜の作成でした。
【16】で触れたように、最初の梅花流教典『梅花流詠歌和讃教典壱』に掲載された曲譜は七音からファとシを除いたドレミソラという、五音で構成されるものでした。これが七音から成る現行の梅花譜となったのは昭和三十年のことでした。『梅花流指導必携解説編(資料)』「梅花流のあゆみ」昭和二十九年八月一日の条に次のようにあります。
梅花音譜制定のため横川良延が主となり作業を進めていたが、久我尚寛、横川良延、安田博道、小堀博道の4名で夜を徹して努力され、一応の結論を出す。
この新譜は翌年4月の春季奉詠大会で発表されました。同年の秋季奉詠大会(10月)では新譜作成の主力であった横川師作曲の「釈尊花祭第一番御詠歌・同第二番御詠歌」が発表されましたが、翌年2月、横川師は48歳で遷化します。
この時、横川師の葬儀に用意された久我尚寛師の弔詞草稿が残されており、そこには次のようにあります。
私は貴師よりも稍遅れて梅花流総本部の企劃に参与するに至ったものでありますが、それ以来貴師と私とは同信同行詠道の盟友として、水魚の交を結ぶに至ったのであります。(中略)その後、私が梅花流の完全独立と飛躍発展のためには、旧来使用され来たった音符に欠陥のあることを感じ、これが改革に対する私案を提案したとき、真先に之に賛同せられたのが貴師でありました。かくて総本部に新音符研究会が創設せられ、貴師はその委員の最適任者として選ばれました。私は今貴師の真前に立ってまざまざと思い起こす追憶の感激があります。それは当時、常務委員会の終了した或る秋の夜長、私の宿舎に委員数名が相会して、漸くにして最終案に到達したときのあの歓喜! 共に相俯して萬歳を叫んだ悲痛の感激を思い起こします。その時以来、貴師と私とは肝膽相照らし刎頚の交を結ぶに至ったのであります。爾来、貴師は梅花流新音符の基礎理論と音階研究のため、広く古今の文献を渉猟して研鑽之努め、遂に当流最高の権威として自他共に許すに至りました。(後略)
梅花流草創期の先達の努力を垣間見る一場面と言えるでしょう。こうして梅花流は名実ともに曹洞宗のご詠歌として大きな前進を果たしたのです。
秋田県龍泉寺 佐藤俊晃