【人権フォーラム】人権学習資料『ここから~東日本大震災から10年~』制作の現場から(後編)
東日本大震災から10年を経た2021年。人権学習資料の作成にあたり、岩手県、宮城県、福島県の被災地で20人以上の方にインタビューをしました。後編では、映像の第2章以降の取材、撮影を振り返ります。
第2章「気づきと学び~被災者支援の現場から~」
曹洞宗東日本大震災災害対策本部・復興支援室分室の久間泰弘さんと佐藤正乗さんへのインタビューを中心に、どのように被災者支援が続けられてきたかを取材しました。
久間さんには忘れられない言葉があります。東日本大震災直後から避難所をまわって食料や衣料などの支援を行っていたときのこと。被災者の一人がこう言ったそうです。「モノはいらない。ただ、人がいてくれればいい」深い悲しみや孤独は、人間から生きる力を奪います。被災者の喪失感は物資だけでは埋められません。佐藤さんもまた、被災地の厳しい現実に直面し無力感を感じていました。僧侶として自分たちができることは何か。その一つが「話を聴くこと」でした。問題を解決することはできなくても、ひたすら話を聴くことで相手が背負っているものを少しでも引き受けたい。被災各地での「行茶(傾聴ボランティア)」活動が始まり、全国から多くの僧侶らが駆けつけました。
それから、10年。今回、私たちは宮城県亘理町の社会福祉協議会と連携して行われた行茶会の様子を撮影させていただきました。新型コロナウイルス感染症の影響もあって久々の開催。兵庫県から参加した僧侶、安達瑞樹さんの軽妙な落語に会場は笑いに包まれます。参加者の多くは一人暮らしの高齢者。「この催しがなければ家に引きこもって、誰とも話さなかった」と語る人も。被災者支援のための行茶活動は、回を重ねることで地域に根付き、コロナ禍という非常時においても、人と人とをつなぐ貴重な「場」となっていました。
「行茶活動は、私たち職員の心も救ってくれた」と笑顔で話してくれたのは、亘理町・社会福祉協議会の佐藤寛子さん。佐藤さんは震災直後から、町民や避難してきた人々のために尽力しました。しかし、頑張れば頑張るほど壁にぶつかり、誰かにすがりたくなることも。そんなとき、佐藤さんの愚痴に静かに耳を傾け、受け止めてくれたのが行茶会に集う「おしょうさん」たちでした。被災地に限らず医療や福祉の現場で必要とされる「ケアをする人をケアする人」。僧侶にはその力があると佐藤さんは言います。
福島県浪江町出身の高野紀恵子さんは、行茶会に参加することで初めて僧侶とざっくばらんな話ができたと嬉しそうに語ってくれました。高野さんは、津波の被害に原発事故が重なり必死の思いで他の地区に避難。仮設住宅で暮らし始めましたが、高齢の母親は心労で間もなく亡くなったそうです。浪江町に帰ることは諦めて、今の場所で生きていくと気丈に語る高野さん。明るい表情の奥には、消えることのない痛みがありました。
久間さんは言います。「被災者の心に流れる時間は一人ひとり違う。何年たっても『今さら』であっても、話したいことがある。ただ、その話を聴く人の数が絶対的に足りていない」と。
私も東京で生活をしていると「もう10年も経った」という感覚に陥りやすく、東日本大震災のことを話す機会も減ってきました。残念ながら風化はすでに始まっています。
しかし、被災地に行き、一人ひとりの話を聴いていると、誰もが「あの時」から続く「今」を懸命に生きていることに気づきます。東日本大震災は決して過去の話ではなく、他人事ではないのだと。
第3章「未来に向けて~子どもたちと震災~」
■NPO法人「ビーンズふくしま」
東日本大震災は、子どもたちにも大きな影を落としました。震災によって大切な人を亡くしたり、友達と離れたり、避難所や仮設住宅での不自由な生活が続いたり。また、親がストレスを子どもにぶつけてしまうことも。生きづらさから荒れる子もいれば、「みんな大変だから」と親や周りを気遣って我慢し過ぎてしまう子もいます。
NPО法人「ビーンズふくしま」の中鉢博之さんは仮設住宅を回り、子ども食堂や学習支援などを続けて来ました。「震災のことも家族のことも、こちらからあえて聞き出すことはしません」それは、思い出したくない、言いたくないという子どもの心に土足で踏み込みたくないからだと、中鉢さんは言います。まずは、一緒にご飯を食べたり勉強のサポートをすることで子どもたちと信頼関係を築いていく。そうすることで、子どもの方からふっと本当の気持ちを話してくれることがある。話を聴くときは、子どもたちをありのまま受け止めることを心がけている、と。
震災から10年が経ち、葛藤を抱えたまま成人した「子ども」も少なくないでしょう。彼らが自分から話したくなったときにいつでも安心して話せるように。私たち一人ひとりの「聴く力」が問われています。
■気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
朝のNHK連続テレビ小説『おかえりモネ』の舞台にもなった宮城県気仙沼市。東日本大震災遺構である伝承館(気仙沼向洋高校旧校舎)では、地元の中・高生たちが語り部として見学者に震災の記憶と教訓を伝えています。高校生の二人にインタビューをしました。
高校1年生(当時)の岩槻佳桜さんは震災のときはまだ5歳。記憶はおぼろげながら3月11日の星空の美しさを今でも鮮明に覚えています。あの夜、星空が輝いて見えたのは一帯が停電していたから。大人たちはその星空に「絶望」を感じたと言います。自分が気仙沼に生まれて体験したことを震災を知らない人たちに伝えたい、また、津波から命を守るための情報を共有したいと語る岩槻さん。その瞳は光に満ち、希望に溢れていました。
高校3年生(当時)の佐藤瑞記さんは、「あの時」小学校1年生。下校途中で地震に遭い、高台に逃げました。
「自分はこの震災の記憶がある最後の世代。語り継いで行かなければ」と使命感から語り部活動を始めました。
佐藤瑞記さんのインタビューの中で特に印象的な言葉がありました。それは、インタビューの最後の質問。「『もし、津波がなかったら』と思いますか?」それまで明るくハキハキと答えていた表情が一瞬揺らぎました。傷つけたのではないかと危惧しましたが、佐藤さんは微かに頷いて、こう答えました。
「津波なんてなかったらといつもいつも思うけれど、津波があったからこその出会いもあった。『悪いことばかりじゃない』と思いたい」ギュッと引き結んだ唇。「思う」ではなく「思いたい」という言葉に、佐藤瑞記さんが歩いて来たこの10年の重さと「ここから」への祈りを感じました。
「おわりに」
今回の撮影は天候にも恵まれ、行く先々で「美しい」「眩しい」光景を目にしました。何より、お話を聴いた方々の笑顔の明るさ、眼差しの温かさ、尊さ。被災地での撮影の終わりにそんな話をすると、ディレクターの三ツ山さんが言いました。「影があるから光が際立つ。そういうことだよ」
光と影。最後にインタビューをさせていただいた鬼生田俊英宗務総長も、それについて語られました。
「生きていくためには明るい人間の生活もあるし、明るい後ろには影もついて回る。光と影というのは絶えず人間一体のものなんです。光の当たるところだけ見たのではわからない」
ご自身も被災者である鬼生田宗務総長のお言葉に、私は被災地でお会いした方々の顔を思い浮かべました。東日本大震災が落とした影は今も濃く、それでも誰もが光を求めて生きている。一人ひとりに「あの日」があり、「今」があり、未来に続く「ここから」があるのです。映像を見ていただいた方々にもそれが伝わり、自分事として考えていただけることを心から願います。
2022年3月16日、福島県沖でマグニチュード7.4の地震が発生しました。平和の祭典であったはずの北京五輪の直後にはロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。久間さんがインタビューの中で語られた言葉を実感する出来事です。
「私たちは平時と非常時を表裏一体で生きている。いつどちらに変わるかわからないところを生きてるんです」
「他者の命、存在を忘れていくことは、自らの命、人間性をも忘れてしまうということ」
どんなときでも、どこにいてもすべての「命」を慈しみ、ともに生きていくこと。10年目の被災地で学んだことを行動につなげていくことが、私自身の「ここから」です。
シナリオライター 山上梨香 記