【人権フォーラム】人権学習資料『ここから~東日本大震災から10年~』制作の現場から(前編)
はじめに ~東日本大震災「あの時」~
東日本大震災。私が思い出す「あの時」は、3月11日ではありません。
それは、2021(平成24)年1月。木枯らしの舞う宮城県石巻市。私は人権学習資料『向きあう 伝える 支えあう~生と死を見つめて~』のシナリオライターとして取材のためにこの地に来ていました。インタビューに応じてくださったのは、津波で小学生のお子さん二人を亡くされた家族でした。仮設住宅に置かれた簡易三尊仏に手を合わせる両親。生前の孫たちを撮った動画を繰り返し見るおばあちゃん。心を抉られるような悲しみが伝わってきます。震災前に営んでいた紡績工場は水没。それでも、この家族は力を合わせてプレハブで工場を再開したのです。被災した人々が一緒に働き、笑える場所をつくろうと。それは、おばあちゃんの願いでした。
「こんなときは一人でいてはいけない。一人じゃ笑えないもの」
このとき、初めて直に触れた被災者の痛み。祈りにも似た切実な思い。私にできたのはそれを映像に記すこと、誰かに伝えることだけでした。
そして、2021年。再び東日本大震災と向き合う人権学習資料を作成するご縁をいただきました。
2022(令和4)年度人権学習資料『ここから~東日本大震災から10年~』について
映像は第1章~3章とまとめの4部で構成されています。ここでは第1章「鎮魂と希望~被災地は今~」について、現場でインタビューを担当した視点から綴らせていただきます。
第一章「鎮魂と希望~被災地は今~」
岩手県、福島県、宮城県。東日本大震災で被災した僧侶、檀信徒。
それぞれの「あの時」「今」「ここから」を語っていただきました。
■岩手県・大槌町
岩手県上閉伊郡大槌町。
2021年10月末、この町からインタビュー撮影が始まりました。波光きらめく漁港では子どもたちが魚釣り。しかし、その背後には15メートル近い防潮堤がそびえ立っています。
大槌町では東日本大震災で人口の一割近い1200名以上が犠牲になりました。震災後間もなく始まった「生きた証プロジェクト」は亡くなった方の人となりや経歴、最期の状況を遺族らから聴き取って、記録に残すもの。プロジェクトを推進した当時の町長・碇川豊さんと聴き取り役の一人、芳賀衛さんにお話をうかがいました。
10年前の「あの時」、碇川さんは津波から必死に逃れて城山に上りました。流れていく瓦礫の下から人の左腕が見えましたが助ける術はありません。碇川さんは合掌しました。
「今亡くなろうとしている人は自分の家族を心配してるだろう。家族もこの人のことを心配してるだろう」
その思いが、「生きた証プロジェクト」へとつながっていったのです。
芳賀衛さんは、津波で地域の仲間たちを失いました。「犠牲者の一人ひとりが、どんな生き方をしてきたかを記録に残すことが供養になる」と、聞き取り役を引き受けました。この聴き取りをした中の一人、東谷藤エ門さんは妻ケイさんを津波で亡くして一人暮らし。ケイさんの「生きた証」は東谷さんが「恋して愛した」記録でもありました。
芳賀さんは東谷さんの話を聴き、おのろけも悲しみも共有しました。「生きた証プロジェクト」は鎮魂であるとともに、残された人々への寄り添いでもあったのです。
一方で、「語れない」「語りたくない」人もいました。遺族もまた、それぞれの思いがあります。
芳賀さんと碇川さんは現在、吉祥寺が立ち上げた慈愛サポートセンターのメンバーとして、無償で子どもや高齢者の見守りをしています。そして、子どもたちに防災の大切さを伝えています。多くの死に向き合い、生かされたいのちに感謝する二人だからこその「ここから」です。
■福島県・南相馬市
「ここは半農半漁で、三世代同居も多い、穏やかなところでした」
福島県南相馬市小高地区。同慶寺の住職、田中徳雲さんは過去形でそう語りました。東京電力福島第一原子力発電所の事故により、この地域は2012年4月まで立ち入り禁止になりました。避難解除になった今でも住民の多くは戻らず、「あの時」までそこにあった「穏やかな日常」は奪われたままです。
原発事故の深刻さを知る田中さんは、家族を連れて福井県に避難。それでも、散り散りになった檀信徒を何とか支援しようと、福井と南相馬を車で往復し続けます。やがて、心身は限界に。田中さんは福島県に戻り、いわき市に家族と住むことに。子どもを持つ親としても、苦渋の選択でした。当時、福島に住んでいた人は大なり小なり心の痛みを抱えて暮らしていたのではないかと、田中さんは語ります。
「何が良くて何が悪いのかとかじゃなくて、その心の痛み、悲しみ、悔しさ。そういうものは忘れてはならないし、繰り返してはいけない」
10年が経ち、檀信徒もそれぞれの選択をしました。家を建て直して元の場所に住む人、別の地域に転居する人。心の痛みを抱える檀信徒にとって、毎月祝祷日に行われる同慶寺での集まりは自分と故郷、先祖とを結ぶ時間にもなっています。
田中さんは言います。「復興はまだまだこれからです」。
原発事故については、これまで自然環境を破壊しながら物質的な豊かさを享受してきたという側面では「私たちは被害者であり加害者」だと。人間が壊した環境を、できる範囲で手入れしながら、子どもたちにより良い環境を残す。そのための活動がしたいと。
■宮城県・山元町
海から600メートルのところに建つ普門寺は、東日本大震災で津波の被害を受けました。本堂は瓦礫で埋め尽くされ、墓石はほとんどなぎ倒されました。遺骨も流出、誰の骨なのかわからない状態。その光景を見た住職の坂野文俊さんは茫然自失、何も考えられなかったと言います。60名以上の檀信徒が亡くなりましたが、葬儀ができる状況ではありません。
避難所から様子を見に来た檀信徒も肩を落として帰っていきました。
「家も失くなって、お寺もご先祖もなくなってしまった」
その姿を見た坂野さんは、「せめてお墓を元に戻し、線香の一本もあげられるようにしよう」と1人で瓦礫の撤去を始めます。その姿を見てボランティアの藤本和敏さんが手伝い始めます。「住職1人より2人だったら何か違うのかな」と。藤本さんの声かけで全国からボランティアが集まりました。坂野さんには彼らが「まるでお地蔵さんか菩薩さん」に見えたと言います。檀家総代の渡邊さん夫婦も坂野さんをサポートしました。
「何とかみんなで元に戻って、ここで手を合わせられたらと」
坂野さんは決意しました。「ここでお盆の法要をしよう」。津波の犠牲になった檀信徒の初盆でもあります。
そして、2011年8月。普門寺でお盆の法要が行われました。集まった檀信徒に坂野さんは語りかけました。
「皆さん、今は本当にすごく辛くて大変かもわからないですが、私はお寺にいて、皆さんを待っています」
坂野さんとボランティアとして寄り添ってきた藤本さんも、そのときのことを思い出すと、10年経った今でも泣いてしまいます。
瓦礫を一つひとつ撤去し、墓石を立て起し、本堂を再建するのは、気の遠くなるような作業です。しかし、お盆の法要を実現できたのは、坂野さんが檀信徒の方々や藤本さんと「希望」を共有できたからではないでしょうか。普門寺に点ったお盆の灯は、被災地を照らす灯明だったのかもしれません。檀信徒やボランティアの方々と笑い合う藤本さんを見て、私は「あの時」の言葉を思い出すのでした。「人は一人じゃ笑えないもの」
シナリオライター 山上梨香 記