梅花流ことはじめ【その13】梅花流発足へ
この連載が始まって2年目を迎えました。これまでは梅花流が始まる前の様々な状況を取りあげて来ましたが、やっと今年から梅花流発足の話となります。そこでこれまで12回の話題をざっとふり返っておきましょう。
第二次大戦中は停滞していた他宗各流のご詠歌講でしたが、戦後には復活したり新設されたりと活発化していました。その大きな理由の一つには戦死者の慰霊供養のためにご詠歌を唱えたいと願う婦人層の要求がありました【一・二】。
一方、戦後の民主化運動の一環として音楽活動も盛んになっていました。これは明治期のキリスト教音楽流入に対抗する形で始まった日本式宗教音楽としての仏教音楽の運動でした。戦争で一時沈滞したものの、戦後再活性化し、各仏教教団でも音楽による布教活動を展開していたのです【三】。
曹洞宗教団でもこれに歩調を合わせ新たな音楽布教手段が試みられていました【四】。
敗戦を機に民主平和路線へと切り替えた日本国の「新日本建設」の方針に従って、各仏教教団はその布教施策を組み立てました。曹洞宗では「正法日本建設運動」という教化方針が打ち出されました。そのスローガンとして掲げた3つの標語は後の梅花流「お誓い」へと展開してゆくものでした【五・六】。
戦争により疲弊した国内の窮状は、やがて来る開花の時期までの耐乏の時期である、というメッセージを時の永平寺熊澤泰禅くまざわだいぜん禅師が発しました。それは「梅花禅」と名づけられ、歴代祖師の刻苦精励の行跡に学ぼうというものでした【七】。
熊澤禅師のもとで永平寺監院かんにん職を勤めた丹羽仏庵にわぶつあん師は来たる道元禅師七百回忌を記念して、曹洞宗でもご詠歌講を創設してはと希望していました。宗門として取り組みが進まぬ中、丹羽師は静岡の自坊を拠点に近縁の宗侶しゅうりょうに呼びかけ斯道会しどうかいを起ち上げました。それは宗門の中でいち早く始まったご詠歌研修のグループでした【八・九・十】。
また宗門の尼僧たちは、戦争の終わり頃尼僧団を起ち上げ、組織的な尼僧の地位向上運動を展開しました。教団における尼僧の新たな活動の一つとして、宗門では創設を検討し始めていたご詠歌講の指導者養成を企図し、三人の尼僧を密厳流みつごんりゅう師範のもとへご詠歌修学のために派遣しました【十一・十二】。
以上をふり返ると梅花流の始まりには〈戦後〉という状況が重要な意味をもっていたことがあらためて確認できます。こうした内外の事情を背景に、昭和26年6月、宗門では教団の外郭団体としてご詠歌講を発足させる方向で具体的な協議に入りました。翌7月には詠讃歌研究委員会が開かれ、先行している各流の調査、曹洞宗ご詠歌としての歌詞の制定、流名の検討等の案件が提起されました。いよいよ梅花流発足へと動き出したのです。
秋田県龍泉寺 佐藤俊晃