梅花流ことはじめ【その8】丹羽仏庵師の働きかけ
永平寺監院であった丹羽仏庵師が、その職を終え自坊・静岡県洞慶院に帰り、曹洞宗ご詠歌講の設置に関わるようになるいきさつを、仏庵師の弟子である丹羽廉芳禅師が次のように述べています。
昭和27年には、ご開山道元禅師さまの、七百回御遠忌が予定されていましたが、旧態然たる計画で目新しさがない。師匠の仏庵は、この御遠忌を長い戦争で荒廃した人心をいやし、あわせ宗門の復興発展をはかる絶好の機会であるととらえていました。監院時代の昭和20年12月、早くも大遠忌の第1回準備会を開くという熱心さでしたので、通り一遍の内容に満足できませんでした。当時、曹洞宗には宗門としての詠讃歌がありませんでした。(中略)師匠はこの点に注目しました。御遠忌までになんとかご開山の御和讃やご一代記をつくり、そのお徳をたたえるしんみりした譜づけを完成したいと願いました。そこで、昭和25年の小松原国乗宗務総長の時でしたが、師匠は宗務庁にご詠歌の創設を再三にわたり進言しました。(丹羽廉芳『梅花開―わが半生』)
この働きかけがきっかけとなって、梅花流誕生へと動き始めるのですが、すでに【その一】以来述べてきたように、先行していた他流派のご詠歌講活動、戦後の民主化運動にともなう仏教音楽活動、曹洞宗教団の正法日本建設運動。一方、熊澤泰禅永平寺貫首の提唱した梅花禅。こうした複数の要因が梅花流発足の土壌となっていました。
仏庵師の動向はこれらの中でも最も重要で直接的な契機となったのです。自坊帰山後の活動については、廉芳禅師と、梅花流草創期の指導的師範の一人、安田博道師との対談にも、次のようにあります。
安田:たしか九州大会のときの記念誌か何かに、そのことをちょっとだれか書いておられましたですね。「仏庵老師こそ梅花流生みの親、その人であり、行学ともに優れた禅定家で、大本山永平寺の監院という重役職を務めた方であった。私などは知るよしもないが、アンテナの鋭い、燃え過ぎる人だ」という感じで書いてあったと思います。
丹羽:アハハハ……そうですか。(安田博道『歌声に仏まします 梅花流とともに歩んだ三十五年』)
もともと仏庵師は、法縁の近隣寺院に呼びかけ、眼蔵家として知られる岸沢惟安師を招いて眼蔵会を開催したり、節物(声明)の勉強会をするなど、曹洞宗僧侶相互の研修活動に積極的に取り組んでいました。その会は「斯道会」という名前でした。仏庵師はこの斯道会を母胎として新たにご詠歌の勉強会を始めたのです。
秋田県龍泉寺 佐藤俊晃