梅花流ことはじめ【その7】梅花禅
梅花流発足の5年前、1947年に「梅花禅」と題する文章が禅宗系の月刊誌『大乗禅』3月号に発表されました。執筆者は時の永平寺貫首・熊澤泰禅禅師です。
蘭菊竹の三に梅を加へて四君子と称揚している。(中略)梅は是れ曲直硬軟槎槎牙牙多種多様にして、しかも凛乎として風致を保ち、山間に水村に處を厭はず寒苦を経て清香を発する点に於ては、実に四君子中の第一位と称すべきである。お互参禅学道の士は宜しくこの雪裏の梅花を以て参学の善友として欲しい。
六祖大師は八箇月眠らず休まず昼夜米をつく。寒苦の錬行思ふべきである。雲巌和尚は道吾と共に薬山に参学し、共に誓って四十年脇を席につけなかった。雪峰和尚には三到投子九至洞山の勝躅がある。慧可大師には、少林山頭雪中断臂の参学がある。釈尊は毫髪を掩泥して燃燈仏を供養され、常啼菩薩は般若を求むるため、不惜身命の苦行があった。雪裏の梅花只一枝と心華開発して三千大千世界を薫破するには、梅花の如き寒苦を経るにあらざればよく為し得るところでない。学ぶべきは梅花の精神である。慕うべきは梅花の忍耐である。
画題にすぐれた4種のうちその筆頭に梅を採りあげます。その姿と、寒苦を経て清香を発する梅のすばらしさを述べ、続いて『正法眼蔵』「行持」に登場する歴代祖師が、苦修練行したエピソードを紹介し、梅花の精神を学び、梅花の忍耐を慕うべきことを述べています。
発表当時の時代状況を考えると、これは第二次大戦敗戦後いまだ復興の途上にある日本人(参禅学道の士)に向かって、やがて到来する開花の時期を信じて、辛抱強く耐え抜くことを説いたものと察することができます。厳寒期を耐えて開花する梅花に、時の社会状況を重ね合わせてメッセージとしたのです。これを掲載した『大乗禅』は、その後足かけ4年にわたってその巻頭言に、窮状を耐え寒風に咲わらう梅花の精神にならおう、と繰り返しています。
つまり「梅花」は、戦後社会の中で〈耐乏から開花へ〉というイメージの象徴として禅宗界に発信されていたのでした。梅花流発足の前史にこんなことがあったのです。
熊澤禅師による梅花禅の提唱はこの文章だけでなく、折々になされたことでしょう。禅師の貫首在位期間は1944年から1968年ですが、そのうち1945年から1948年まで永平寺監院であったのが、静岡県洞慶院住職・丹羽仏庵師です。丹羽師は監院職として禅師を補佐しながら、梅花禅の教えに親しく接していたことでしょう。監院職を終え、自坊に帰った丹羽師がやがて曹洞宗にご詠歌講設置を働きかける中心的な役割を果たすようになるのです。
秋田県龍泉寺 佐藤俊晃