【人権フォーラム】「私のあるく道」熊本県泰巌寺住職・くまもと「狭山事件」を考える住民の会  代表 磯田浩隆

2020.10.08
第1回坐りこみ(2002.6.23 於:辛島公園)

前号に関連して、狭山事件の再審開始に向けて取り組む、熊本県泰巌寺住職磯田浩隆師にご寄稿いただきました。師は、明光寺専門僧堂役寮、曹洞宗人権啓発相談員をお勤めになりながら、くまもと「狭山事件」を考える住民の会の代表をされておられます。本稿の前半では、実際に当事者の方々と取り組みを続けてきた実感と後半では現在の活動報告を語っていただきました。

27年前の10月31日、私は東京日比谷公園にいた。決して自主的に来たのではない。宗務庁開催の青少年教化委員研修会参加のついでに、前日の寺尾差別判決糾弾狭山中央集会(現在は、狭山事件の再審を求める市民集会。以降「狭山集会」と表記)に行くように隣峰の老僧に頼まれてのことだ。内容の説明はなかった。これまで抗議集会、デモへの経験はなかった。宗門の部落差別解消への取り組みや「狭山事件」への抗議、再審請求への協力も知ってはいたが、自己究明他者救済としながら世間の問題に一定の距離を置くものと、自分自身がつくった僧侶像が遠ざけていたようだ。

日比谷公園は熱気に満ちていた。まだ獄中の石川一雄さんを取り戻し、無実を証明し再審無罪を勝ち取るために一丸となる5000人の姿に驚いた。そして自身を恥じた。手持ちの資料を必死に読んだ。集会の話も懸命に聞いた。デモ行進でも声を張り上げた。石川一雄さんが被った部落差別による不条理の現実が間近になった。帰路寝台列車の中で考えた。部落差別の理不尽さ、人生を奪った冤罪に怒り考えた。私自身に出来ることとは何か。万人は一人のためにひとりは万人のためにと、「狭山」を、示す言葉は後に知った。熊本に帰りこのことを話したが、共感は得られなかった。『曹洞宗報』に掲載されていた裁判所と検察庁に抗議の葉書を出すことに終始した。それから年に2回の狭山集会に参加した。

1999年7月8日、第二次再審請求が棄却された。それに対して市民運動の集結を、と全国に住民の会を組織する協力要請が部落解放同盟熊本県連合会(以下、県連)より「同和問題」を考える熊本県宗教教団連絡会議(以下、同宗連)に依頼があり、会議がもたれた。

そのとき、人権擁護推進主事として出向していた同宗連事務局として参加した。協力に合意したものの初動が遅れ、発足に至らなかった。同宗連の加盟教団の大多数が、仏教宗派であり七月八月のお盆を理由に、同宗連の会議を開くことが出来なかったからである。事務局として自責の念で居たたまれなかった。

石川一雄さん、早智子さんとともに(2013.2.23 於:辛島公園)

同年10月31日の狭山集会で、くまもと「狭山事件」を考える住民の会の横断幕を見て発足を知り入会した。住民の会は、発足時には代表不在であった。新聞等マスコミ対応に代表は必要であった。県連書記長より代表就任の提案があったが、狭山事件に向き合い始めたばかりの私では不適任と断った。しかし、書記長より、「運動の矢おもてに立つには偏見差別を被り誹謗中傷を受ける。僧侶であればその覚悟は出家時にできているはずだ」と言われ、断る理由がなくなった。書記長はまさに矢おもてに立ち差別に決然と闘う人であった。それから住民の会のメンバーの賛意も受け代表を務めている。 

住民の会は発足当初から活発に活動がなされている。様々な出会いの中に学びがあった。しかし、自分自身の持つ差別心が顕かになったのは10年後の坐りこみのテントでの語り合いだった。

かつての私自身を振り返ると、寺院に生まれたが僧侶になる気はなく、何の目的も見つからないまま、高校を中退し働くも長くは続かず、さらに交通事故で命を落としかけ半年間の入院をした。今後どう生きるか行き詰まった。久しく両親とも会っていなかった。ベッドの枕元に、父親であり師匠によって置かれた『正法眼蔵随聞記』と『学道用心集』に、解せずとも少しの憧れをもった。子どもの頃より人間関係において強者と弱者の相対で成り立ち、弱者は理不尽であれども不利益を被るものと受け入れてしまっていた。それは就業によりさらに強まっていた。

仏教僧侶で生きることは、虐げられても虐げず、誇らしく生きられると感じた。その後、僧堂に安居し夜間高校、夜間大学と通った。卒業後、幾つかの寺での居候し師寮寺に戻った。半端な学問と僧侶としての振る舞いになれた私はいつの間にか強者側に立ち傲慢になっていたことに気付かされた。

石川さんのことも被差別部落のことも同情と憐れみでみていた心の奥底が見えた。振り出しに戻った気がしたが楽になったようだ。

 

くまもとの「狭山事件」を考える住民の会の闘い

現在住職、僧堂役寮、人権啓発相談員を勤めながら、「狭山」部落解放運動と通底すると日々感じています。

くまもと「狭山事件」を考える住民の会は1999年10月23日に発足し、隔月の公開学習会、レポート研鑽を中心にスタッフ学習会、狭山学習の依頼を受けての出前「住民の会」を行っていました。また、学習会にとどまらず「狭山事件の真実、石川一雄さんの無実の叫び」をたくさんの人々に伝えようと毎月23日に熊本市中心部においてのビラ情宣活動を続けていました。

「石川さんの完全無罪の勝利を!」訴える(2020.6.23 於:辛島公園)

2002年の部落解放第47回全国女性集会の2日目(3月30日・宮崎市)、第二分科会で、埼玉から狭山を闘う子どもたちの演劇会、福岡からの高齢者グループの狭山を闘う替え歌の報告、さらに兵庫から狭山事件を考える市民の会・宝塚が第二次再審異議申立棄却決定に抗議する36時間座りこみ等を報告。これらに触発され、同年6月23日午前7時から午後7時まで熊本市・辛島公園で石川一雄さんの無実を訴える12時間の坐りこみをはじめ毎月続けています。

2020年8月23日で220回目となり、参加人数はのべ4729人となりました。朝6時半ごろからテントを設営し幟を立て横断幕を張り、「狭山」カレンダーのパネル展示を設置。テントの中では、ゴザに車座になり狭山事件は部落差別による冤罪であることを確認、第三次狭山再審請求の現状をふまえ、石川一雄さんの実直な生き方、不撓不屈の闘いから学び、自分自身のこととしての気づきを語り合い、「狭山」再審の実現、石川一雄さんの完全無罪の勝利を道行く人々に訴えています。夜七時に片付けのあと、「差別裁判うちくだこう」の合唱と「石川無罪! 東京高裁は再審をおこなえ!」のシュプレヒコールで解散となります。

2020年7月23日の坐りこみ(於:白川緑地公園)

現在は、新型コロナウィルス感染予防を意識し、体温測定・マスク着用・消毒薬の常備、車座ではなく距離をとり椅子に坐って行っています。2016年には熊本地震が襲いました。全員が被災者であっても坐りこみました。石川一雄さんの57年の闘いを思えば、暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが「もう一歩前に」と続けています。これまで18年坐りこみをしている辛島公園は、工事のため一年間使用ができなくなりました。7月23日より、白川右岸緑地に移りました。辛島公園より徒歩5分ほどの国道3号線沿いです。新たな地でも「事実調べ」「鑑定人尋問」そして「再審開始」を求めています。

私たちができる石川一雄さんへの連帯の証とし、「みえない手錠をはずすまで」ともに闘い抜く覚悟で続けていきます。白川右岸緑地は、JR熊本駅より徒歩25分、桜町バスセンターより徒歩10分、駐車場なし、朝食昼食炊き出し有り、どなたも参加できます。

「狭山事件」の真の解決は部落差別をはじめあらゆる差別問題解消の礎であると信じ、石川一雄さんの完全無罪を勝ち取らずして部落差別問題の解決は無いと確信しています。

 

2002年6月23日の第1回坐りこみで綴った「狭山」の闘いに決意を込めたメッセージ集より 

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「すわる」という漢字は、

「座」と「坐」二つ書けます。

後者の「坐」は屋根がない「すわる」

です。

場所を選ばず、さらすことです!

それぞれの「狭山事件」に対する思い

を、道行く人々に伝えます。

これからも「坐ります」

磯田 浩隆・作


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