【人権フォーラム】「業」の教えと人権思想 第3回-三時業の問いかけ 善人がなぜ苦しむのか-
人はなぜ宗教を求めるのか
自然環境から生まれ出た「最も弱い一本の葦にすぎない」(パスカル)人間は、ことばの文化によって、他の生物とは異なった知覚や生活のスタイルを創造してきました。
その中で、もっとも独自な文化の一つが宗教という文化形態です。
太陽や火炎などの自然現象から、神さまや抽象的な真理など様々な事物を神聖化し崇拝してきた、広い意味での宗教文化は、なぜ古今東西の人々に受け入れられてきたのでしょうか。
たしかに、現代の自然科学(サイエンス)や科学技術(テクノロジー)が発展し急速に進化するにつれて、迷信や呪術的な宗教信仰は次第に影響力を失ってきましたが、その一方で、なおも「宗教的」なことがらが、世俗生活の様々な場面で根強い力を持っていることを、どのように理解したらよいのでしょうか。
宗教学者の数だけその答えがあるとされるこの難問に、即答することは無理な相談です。
ただし、制度宗教(仏教やキリスト教・イスラーム教など)だけに限らず、独立した宗派や信者を持たない、宗教的な欲求は、ある人間の状況から生まれていると思われます。
それは、どんなに高度な文明が達成されたとしても、その土台としての人は、有限ではかない生命と、病気や怪我で損傷を受けやすい身体と、捉えがたい不安定な精神によって日々の生活を営んでいるということです。さらに、どんなに法律や道徳が悪や不正を規制したとしても、人は罪や過ちを犯しがちな存在でもあります。この有限性と罪過の習性が、人の基礎にありますから、限りのない、より清浄なあり方を求める欲求や願望が、広い意味での宗教文化を形成してきたといえるでしょう。
三時業の問いかけ
「業」の教えには、大きく同時(同類)の因果と異時(異類)の因果とがあるということは、前回述べました。
一般に「業」の教えというと、異なった時間や生存形態における業の因果関係のことで、これを「異熟」とか「応報」とも表現しています。
この業の異熟や異時・異類の因果ということについては、仏教教学の流れのなかで、様々な教義や解釈が積み重ねられてきています。(十二支縁起・業感縁起・三世両重の因果・三時業など)
道元禅師は『正法眼蔵』等において、異時の業の因果とりわけ「三時業」を明らめることを「すでにこれ祖宗の業なり、廃怠すべからず……この三時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称することなかれ」(『正法眼蔵』三時業の巻)と述べて、仏道の基本として参学すべきだと強調しています。
なぜ三時業が説きだされるに至ったのかについては、実は前節の「人はなぜ宗教を求めるのか」という問題意識とも深く重なり合います。
もし、人の生活全般が、理性や道徳および法律や科学技術によって営まれているのであれば、およそ宗教や信仰なる文化は、一部の好事家は別にして、あまり人の気をひきつけることはないでしょう。なぜならば、森羅万象・人事百般が、単純な理屈や規則によって整然と処理されるからです。
善人が幸せに、逆に悪人が苦難に見舞われるだけであれば、みな善行の実践だけを選ぶはずです。
しかし、人間の現実、世間の実態というのは、必ずしもこうではありません。むしろ、逆の場面が多いという矛盾や背理に私たちは遭遇します。人生の不幸や不条理に落胆し悲嘆するなか、「なぜ、という問いに答えを与えようとして人は物語をつくる。幸せのなかに物語はない」(柴田元幸)とあるように、苦難の意味を考えます。
倫理・道徳や宗教は、苦難をどう理解し、応答してきたのでしょうか。
闍夜多尊者の疑問
異時・異類の業の因果(異熟)とりわけ三時業の教説が説きだされることになった事情について、禅仏教の歴史書には、次のような挿話があります。
後の第二十祖となる闍夜多尊者が、第十九祖の鳩摩羅多尊者と会ったとき、次のような疑問をぶつけました。「私の家庭の両親は普段から仏教を篤く信仰してきましたが、病気にさいなまれ、なすことやることすべて意のままにならない。しかしながら、隣の家庭は普段から悪行を重ねながらも、健康を保ち、思い通りに生活している。彼には何の幸いがあるのか。私たちにはどんな罪があるというのか」と。
鳩摩羅多尊者は答えます。「なぜ貴方は疑うのか? 善悪業の応報には三時があることを……」と。
この挿話は、『正法眼蔵』「三時業」巻の冒頭に引用されている『景徳伝燈録』にある、有名な説話です。
三時業の教説は、まさにこの業の因果にかかわる現実の矛盾、つまり善行が楽の果報に、逆に悪行が苦難の結果に必ずしも対応しないではないかという素朴な疑問から出発しています。
なぜ善人が苦しむのか。この苦しみは何のためなのか―これは仏教だけに限らず、様々な宗教や倫理思想が永年追究してきた難題です。人のあり方や人生は、生老病死に言及するまでもなく、決して理屈や正義だけでは割り切れない、ある意味では不条理で不可思議な混沌が基礎にあります。どんなに気をつけていても、ある日突然に、病や死が予期せずに現実となったり、不摂生や悪行をほしいままにしたりしても、一向に悪影響の現れない人も多くいます。
宗教文化が、古今東西に見いだせる普遍的な文化であるということは、実は、この矛盾や不条理が時代や民族や個々の宗教の枠を超えて存在していたからでもあります。
この善人がなぜ苦しまなければならないのかという難題を宗教学では、「苦難の神義(意味)論=弁神論」とも言います。ユダヤ教・キリスト教およびイスラーム教のような一神教では、神の摂理や正義に照らして、苦難の宗教的意味を認め信仰します。
一方、超越的な創造神という原理を立てない仏教では、この「苦難の神義論」は神の問題ではなく、人の業のあり方として受けとめられてきました。
先に紹介した『正法眼蔵』「三時業」巻における挿話では、人生の矛盾や不条理についてより端的に
仁愛ある者が若くして逝去したり、暴悪なる者が天寿を全うしたり、逆罪を犯す者が幸せに、正義の人が不遇な生涯を終えるというのを目の当たりにして、およそ人というものは、「業の因果もその果報も所詮は虚しい」と即断してしまう過ちを犯しがちだ。と述べています。善因善果・悪因悪果(正しくは「善因楽果・悪因苦果」)という道理も、実際の現実とは異なり、なんら頼りにならない、という見方に傾きがちなのが、人の常です。
しかし、これは業の因果の表面のみを見ていて早合点しているだけのことで、業の因・縁・果(縁起)を三世(現在世・来世・来世以降)にわたって受けとめるべきだと、鳩摩羅多尊者は、提唱しています。
三時業は実は複雑で不可知
では、三時業とは、どのような業のあり方を指すのでしょうか? 三時業とは、現在世・未来世そして第三世以降の三世における行為とその果報の関係のあり方を言います。現在世の善悪の行為からその結果を受ける時差や遅速に応じて、次の三種類に分類されます。
(一)順現法〈報〉受業・・・・現世の善悪業の果報を、現世中に受ける
(二)順次生受業・・・・現世の善悪業の果報を、来世で受ける
(三)順後(次)受業・・・・現世の善悪業の果報を、第三生以降に受ける
三時業の教説は、初期仏教からの伝統的な教説のように考えられてきましたが、それが「三時業」として定説化されたのは、インド部派仏教時代のアビダルマ仏教以降のようです。
三時業の重視は、両祖の業論の基本的な立場です。特に道元禅師は『正法眼蔵』の各巻の中で、三時の業報の理を「如来の正法」「祖師の所判」「祖宗の業」とし、「仏祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の理をならひあきらむるなり」(「三時業」巻)と明言しており、三時業を『大毘婆沙論』等に従い解説を施し、さらに経典・論書・祖録等の譬喩譚や例話を引用しています。
その例話では、現在世の強い悪業がその世において苦しみの結果をもたらしたとか、過去の善悪業が、現在世にこのようなかたちで報いを受けたというような、いかにも機械論的な原因・結果論の例証のような錯覚をもちます。このような例話を機械的に実体化していきますと「短命は殺生より来る」とか「患盲は破戒より来る」(因果十来)のような差別的な因果律にもなりかねません。
しかし、よく考えてみましょう。今のこの境遇や苦楽の状態は、はたして過去のあるいは現在のどの行為の報いなのかは、誰も知ることはできません。さらに、仏教における業の因果というのは、因果とは言いながら、縁(間接条件・環境)をも含んだそれですから、三時業も実は非常に複雑な関係であり、不可知なことがらです。それを単純化して、今の境遇を、恣意的なある原因から必然的にもたらされた果報とすること自体が、仏教の業の教えの本質を逸脱することになります。
「業」の教え、とりわけ三時業の因果関係が単純に把握できなくても、陰徳を修し、悪事はこれを避けることの積み重ねが大切なことを銘記すべきでしょう。
人権擁護推進本部 記