【人権フォーラム】長崎県壱岐市大韓民国人壱岐市芦辺港 遭難者日韓合同慰霊祭に参加して
令和元年10月10日から11日にかけて、長崎県壱岐市天徳寺において、「大韓民国人長崎県壱岐市芦辺港遭難者日韓合同慰霊祭」が営まれ、九州管区内や有縁の曹洞宗僧侶、韓国の佛國寺・水谷寺の僧侶や駐福岡大韓民国総領事館の役職員、壱岐市長をはじめとする市民等の関係者、約100人が参列した。台風一九号の日本列島上陸がせまる中での開催となり、当日は各種交通機関に影響が出始めていた。このことについて天徳寺の西谷德道住職は、「当時も台風によって事故が起き、多くの方が亡くなったのです。そのことに思いを馳せましょう」と静かに話された。祖国の地を踏むことなく、無念のうちにお亡くなりになった方の悲しみを思いながら、この法要に随喜させていただいた。
終戦直後の1945(昭和20)年10月10日深夜から11日未明。祖国を目指し多くの朝鮮人が乗った日本からの引揚船が、最大瞬間風速51.6メートルを記録した阿久根台風の猛威に襲われ、座礁、転覆し、百数十人の方が亡くなった。地元住民の証言によれば、湾内には、藻の絡まった遺体が何体も、大の字で浮かんでいたという。政府が用意した船ではなかったため公式な記録はないが、壱岐市の記録で168人の方が亡くなったことが分かっている。中には、赤子を抱えたまま息絶えていた母親もいたとのことである。
遺体は遭難現場近くの清石浜に仮埋葬された。その後、1967(昭和42)年に掘り出され、荼毘に付された後、地元有志が建立した「大韓民国人慰霊碑」に納められた。
ご遺骨は広島の三菱重工業の朝鮮人徴用工だ、という予断のもと、市民団体が1976年に再度発掘調査を行なった。このときに発掘された遺骨80体を含む合計86体が壱岐から
広島に持ち出されたが、実際の発掘状態や遭難時期など、三菱徴用工のものではないことが判明している。
このような複雑な事情と誤った事実認定のまま、2003年に日本政府は、市民団体から被徴用者遺骨として犠牲者の遺骨を引き取り、政府が管理しやすいという理由から、祖国より遠く離れた埼玉県金乗院(真言宗豊山派)に遺骨は預託されることになった。
天徳寺では、先代住職である西谷德琳師のころから、毎年慰霊供養が行われてきた。1998(平成10)年に韓国佛國寺・水谷寺の韓国人僧侶とともに日韓合同慰霊祭が営まれてからは、日韓交互で慰霊祭が厳修されている。
一部の遺骨が埼玉の地にあることに心を痛めていた天徳寺の西谷住職は、「縁もゆかりもない埼玉から遭難現場に近く、長年供養を続けてきた天徳寺に遺骨を移送したい」という強い思いを持っていた。その相談を受けた宗門は、天徳寺とともに、壱岐島関係の遺骨を管理する厚生労働省と外務省に、埼玉から壱岐島へ遺骨をもどすよう、継続的に嘆願書を提出してきた。
また、預託先の金乗院住職の理解を得るべく参詣を続け、壱岐島遺骨の経緯を説明するなどしてきた。そうした経過もたどりながら、昨年5月31日に、ようやく遺骨が天徳寺に移送されたのである。「祖国に少しでも近い場所に」との念願が実現したのであった。
法要において、天徳寺の西谷住職は次のように挨拶された。
「今年の慰霊祭は、芦辺港で亡くなられた168体に加え、対馬品木島と池畠に漂着した45体の遺骨、さらにこの年帰国の途中、玄界灘で遭難された人々の供養も行いたいと思います。
あと少しのところで、祖国へ帰れなかった人々、74年過ぎてもいまだ故郷へたどり着けない遺骨がここ天徳寺にあります。
この遺骨の返還は、日韓両国の政府間交渉で行われるとお聞きしました。日韓両国の政府の皆さん、どうか一刻も早くこの遺骨が祖国へたどり着けるよう、お取り計らいをお願いします。
小さな壱岐の島の小さな港町での日韓友好合同慰霊祭が今後の日韓関係を正常化する、大きな突破口となることを確信いたしております」 帰郷を前に無念の死を遂げた人たちを弔い続けるのは、私たちの務めである、と西谷住職は語る。
確かに、現在の日韓関係は国交正常化以後最悪の状態といわれる。しかしながら、政治的にどういう関係にあろうとも、確かにそこに存在した一人一人の命を悼むことに対して、宗教者のとるべき姿勢に変わりはないことを、西谷住職は教えてくれている。
政治に翻弄され続け、各地を転々とした遺骨は、ようやく韓国に近い壱岐へと戻ってきたが、遺骨返還に向けた政府間の動きは停滞している。一日も早い遺骨の祖国帰還を念じてやまない。
人権擁護推進本部記