【連続インタビュー】仏教の社会的役割を捉え直す⑬
ほぼ1年間にわたって連載した本記事の各先生へのインタビューが先月号で終了しました。
激動の時代にあって岐路に立っているといわれる日本仏教ですが、現代社会の諸問題にどのように応えることができるのか、その社会的役割について改めてご一緒に考えたいと願っての企画でした。お陰さまで、島薗進先生、前田伸子先生、川又俊則先生にお話をうかがって、現代社会の中における日本仏教の課題や可能性が明らかになり、未来へのヒントも様々に得られたのではないでしょうか。
筆者自身もインタビューを通して多くのことを学ばせていただきました。
そこで、この特集を結ぶにあたって、改めて全体を振り返りたいと思います。
聞き手・構成 (公社)シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー・曹洞宗総合研究センター講師 大菅俊幸
結びとして
現代仏教の歴史的位置とは
まず、最初にご登場いただいた島薗先生は、宗教学の立場から、現在の日本仏教が立っている位置を俯瞰し、何が問われているのかについて示してくださいました。
人口減少が進行して、寺院がこれまでどおりにはいられなくなってきている今こそ、檀家制度の長所と短所の両面を考える必要がある、と島薗先生は指摘されます。
およそ400年続く日本の檀家制度により、日本全国津々浦々まで寺院があり、家の中には仏壇があります。このような国は世界中に例がなく、それほどまで、仏教が隅々まで浸透したことが長所といえます。しかし、そのために、人々が抱える困難に近づき、苦の現場に近づくという面が弱まった恐れがあることが短所として指摘されました。特に、近・現代の新宗教は、人々の苦しみや悩みに近づくことで台頭してきたが、伝統仏教はそれに応じる面が弱くなっていって、今そこが問われるようになってきたのではないか、と島薗先生は語られます。
とはいえ、伝統仏教も変革をめざして行動した時期があったことも知りました。明治維新の頃に「僧俗共同で新たな社会をめざす変革のときになったわけだから、今こそ仏教の役割があるのだ。今までの檀家制度という枠組みを超えて在家を巻き込んで動かなければならない」という考えがあったことを知り、筆者としても目が開かれる思いでした。
曹洞宗関係の人としては大内青巒や大道長安らの名前が挙げられました。
明治初期に貧困児や孤児が社会問題となりましたが、大内青巒は育児事業に強い関心を寄せて当時の仏教者に多大な影響を及ぼしています。その大内が関わった曹洞宗の教会・結社「曹洞扶宗会」は、慈善による宗教的実践として貧困児童教育に着目し、全国の教員養成や小学校建設の援助などに力を注いでいます。大道長安は孤児の教育や刑務所での教誨にあたり、貧困や疫病に悩む人を安心に導きました。そして、NGOで活動する筆者にとって、とくに印象深かったのは瓜生岩という女性の存在でした。瓜生は、戊辰戦争において、敵味方の区別なく負傷者を救護して、学校を作って孤児や困窮する人々の保護にも取り組み、日本のナイチンゲールと呼ばれた人です。瓜生は在家の人ですが、曹洞宗寺院の支援がなかったらそのような活動はありえませんでした。明治時代に行われた福祉活動として先駆的であり、寺院と在家の協働という点でも、現在のNGOの観点からも注目すべきであると感じます。
時代の大きな転換期に活躍したこのような先人に学ぶことは、とても大きな意義があると思いました。今こそこのような人々を発掘して、その中から仏教の社会的実践のヒントを学びたいものです。
3・11は、お寺や僧侶の再認識を促した
キリスト教などと比較すると、とかく社会性が弱いといわれる傾向にある仏教教団ですが、島薗先生は、そもそも日本仏教は、歴史的にみても、社会の問題に取り組み、そこに正法を甦らせよう、広めようとしてきており、そのことを想い起こす大きなきっかけとなったのが東日本大震災であったと指摘されました。
震災を通して、寺院と地域の人々のつながりがいかに重要かに気づいたと同時に、いざというときの避難所として、地域に根ざした居場所として、お寺の存在が再認識されました。そして、不条理にも身近な人を突然に亡くされた人たちは、死と生というテーマについて切実に悩み、僧侶に相談や助言を求めるケースも多くみられました。僧侶という存在が強く再認識されたと言えます。
〈地域社会〉が一つの鍵
こうして再認識された寺院と僧侶の役割ですが、これからの寺院を考える上で1つの鍵となるのは、〈地域社会〉ではないか、と島薗先生は語られます。
かつて日本には、地縁や血縁によるしっかりした社会基盤がありましたが、今やそれが空洞化してきており、寺院が地域社会での創造的な役割を果たすことを世間が期待し始めています。島薗先生は、一例として、昨今、話題になっている「子ども食堂」を取り上げ、寺院で「子ども食堂」を行うことの可能性について言及されました。(本誌2019年8月号76頁)。
筆者自身も、「子ども食堂」の関係者から「お寺でやっていただければありがたいのですが」と相談を受けた経験があり、寺院にふさわしい取り組みであると感じています。さらに、子どもに関する活動として、「おてらおやつクラブ」も取り上げられました。貧困家庭の子どもたちに、寺院に寄せられたお菓子などを届ける活動です。
地域社会が抱える問題は、子どもの問題だけではなく、高齢者の孤立、自死対策、過疎化など多岐にわたります。僧侶と在家者が協力して取り組んでいる実践例として、秋田県藤里町の袴田俊英師や、長野県松本市の飯島惠道師の活動なども紹介されました。そして故太田宏人師のように、被災地などを巡って困難を抱えた人たちに寄り添う僧侶の存在も知りました。地域社会の要請に応えて創造的な役割を果たそうとするお寺や僧侶が増えてきていることはとても心強いことです。檀家制度の限界が見えてきている中、このような模索の姿に新しい可能性を感じます。
スピリチュアリティと仏教者
さて、先の大震災において、僧侶という存在が再認識されたのは、不条理とも思える身近な人の突然死に直面して、その悲しみをどう受けとめればいいのか、死と生の問題に主体的に向き合ってくれる宗教者の存在が必要とされたからでもあります。
そのような背景から「臨床宗教師」という新しい宗教者のかたちが誕生したわけです。
「死を迎える人に、医療者だけでは限界がある。そこに寄り添う宗教者が必要である」との、岡部健医師の切実な志から生まれたものでした。
死に行く人へのケア、よりよく死んでゆくためのケア、つまりスピリチュアルケアがますます必要とされ、それに対応できる宗教者が求められ、同時にその資質が問われているともいえます。そして、宗派や宗教の違いを越えた宗教者のあり方が生まれたわけであり、その意味でも画期的であったといえるでしょう。
そのような臨床宗教師というものが生まれた背景について島薗先生は「スピリチュアリティ、スピリチュアルケアという言葉が広まっています。宗教こそその役割をもっているのだけれどこれまでの宗教の言葉、人材育成のあり方だけでは対応できなくなっています。(中略)そんなところから、色々な仏教系の大学で臨床宗教師の講座を行うようになってきている」と語っておられました。(本誌2018年9月号122頁)
宗派によって事情が違いますが、これまで、伝統仏教はスピリチュアリティやスピリチュアルケアに対して、慎重であったように思われます。しかし、現代社会からの要請にこれまでどおりでは対応できなくなっており、新たな発想の転換や取り組みが求められているのではないでしょうか。
曹洞宗とシャンティの連携
本連載では、私ども「シャンティ国際ボランティア会」(以下、シャンティ)のこれまでの歩みについてお話させていただいたこともありがたいことでした。(本誌・2018年10月号、2019年7月号)
シャンティは、そもそも「曹洞宗東南アジア難民救済会議」というプロジェクトに端を発します。1979年、曹洞宗僧侶が、世界中の困難を抱える人々を座視してはいけない、と、当時大変逼迫していたカンボジア難民の支援に立ち上がり、活動を開始しました。そして、その意志を引き継いで、何度かの改組を経て、現在もアジアを対象として、教育支援を中心とした活動を続けています。今では、日本を代表する国際協力NGOの1つと言われるまでに育てていただきました。しかし、歳月の経過とともに、そのような経緯をご存知の宗侶の方が少なくなったように思われます。シャンティが曹洞宗から生まれた団体であることをこの機会に思い出していただければとてもありがたく思います。
幸いなことに、今年の1月、曹洞宗とシャンティの間で、今後、さらに連携を深めていくための協定書が取り交わされました。「人生100年時代」といわれ、高齢世代の新たな生きがいが求められる一方、血縁や地縁などが脆弱になって空洞化も指摘される日本社会ですが、今後、外国人労働者が増えることなども予想され、益々、激しく変化していくことは明らかです。
島薗先生からのご助言のとおり、これまで38年間、アジアで活動してきた体験をこれまで以上に日本社会に活かしてまいりたいと思っております。
微力ではありますが、宗門とさらに連携させていただくことで、災害支援はもとより、国内外の諸問題に対して、尚一層の、そして他ではできない社会貢献を果たしてまいりたいと念願しています。
社会苦に応える仏教へ
島薗先生は、これからの日本仏教の学術的展開についても「現代社会にふさわしい仏教の役割という観点から伝統を見直す面が今後の課題ではないかと思います」「日本仏教として世界に対して力あるメッセージを発信していただきたいと願っています」と期待感を示しておられました。(本誌2018年10月号415頁)
折しも、世界は今、国連が推進するSDGs(持続可能な開発目標)に注目し、「誰一人取り残さない」という理念のもと、貧困、飢餓、働きがい、教育、経済成長、気候変動など、世界が抱える17の課題に取り組んでいます。曹洞宗が取り組んできた「人権、平和、環境」というテーマも、同じ方向をめざしているといえます。そのことについても島薗先生は「新たな時代に向けて理念を広く捉え、現代社会の中で痛みを抱えて生きる人々に応える必要性がある」と述べられ、曹洞宗の「人権・平和・環境」のテーマもそのような形で展開しては、と語られました。(本誌2019年8月号83頁)
こうして、島薗先生からは、日本仏教史や世界という視野から現在を見据えた上で、社会の痛みに応える仏教に向けて、様々なご提言をいただきました。
コミュニケーション能力の育成
震災後、臨床宗教師という新しい宗教者のかたちが生まれたわけですが、その事態が呼びかけているものをキャッチし、動き始めているのが、大本山總持寺と鶴見大学が連携して取り組んでいる事業「終末期医療を支援する臨床宗教師等の育成事業」であるといえます。
その推進役である鶴見大学の前田伸子先生にご登場いただき、お話をうかがうことができました。
大本山總持寺と鶴見大学が取り組んでいるこの事業は、大本山總持寺で修行している雲水に、臨床宗教師研修の最初のステップであるコミュニケーションについて学んでもらうため、コミュニケーション能力の育成に特化して行っている研修です。他大学では行っていない取り組みであり、先駆的であり画期的なことです。
この事業のきっかけは前田先生ご自身の体験にありました。日ごろ学生と接する中で、自分の思っていることをしっかり伝えられる能力があるだろうか、と不安になった前田先生は、コミュニケーション能力を磨く研修を受けられました。そのときの体験が下地となってこの事業につながったということでした。(本誌2018年11月号58頁)
このようなお気持ちから、当時の鶴見大学の学長に相談し、總持寺の理解へとつながり、実現に至ったのが、この事業であったということを知りました。この事業は今年で五年目を迎え、次のステップに向かおうとしています。
研修を受けた雲水は、やがて師寮寺に戻って、檀信徒や地域の皆さんの様々な相談に乗ることになります。これからの時代、地域社会で創造的役割を果たしてゆく上で、「自分とは何か」を探究し、コミュニケーション能力を磨くことはかなり重要なことと思います。必須であるとさえ言えるのではないでしょうか。
このように、臨床宗教師の果たす役割が社会から求められていることを受けとめ、僧侶の持つべき資質の向上を目指す取り組みは非常に重要であると思いました。
それから、總持寺と鶴見大学と地域が連携して、地元鶴見の街の活性化に取り組む様子にも感銘を受けました。
それも、地域の側から連携したいと熱望されているとのことで、地域づくりの参考になるのではないかと思います。
この点に関連して、島薗先生はお話の中で、「共感都市」という考え方を紹介されました。同じ地域社会の人々の悲しみに共感することを大切にしたまちづくりのことです。取り組み方によっては、宗教者と大学、地域社会、行政、企業、NGOなど、様々なプロパーとの連携によって、これまでにない「共感都市」としての鶴見、という斬新な地域づくりも可能ではないかという気もしてきます。ちなみに、シャンティも鶴見大学とさらなる連携を深めるべく、対話を重ねているところです。
「人生100年時代」と仏教
さて、3番目にご登場いただいた川又俊則先生は、社会学者として様々な宗派の仏教寺院だけでなく、キリスト教会の調査にも携わっている方です。
それらの幅広い知見に基づいたお話をうかがうことができました。
人口減少化時代を迎え、寺院の数も減少する可能性があるといわれますが、今や「人生100年時代」といわれ、80歳まで働けるように生き方を変えなければならないとも言われます。人生を前向きに生きるための生きがいが切実に求められます。このような〈老い〉の世代に対して、仏教者が前向きな学び方や生き方を提案していくときではないかと助言をいただきました。
それから曹洞宗宗勢総合調査、曹洞宗檀信徒意識調査に携わる中から見えてきたものについてもお話しいただきました。「寺院格差」「後継者の問題」「檀家数の減少」が、曹洞宗のみならず、現在の仏教教団に共通した傾向であることをご指摘いただきました。
ソーシャル・キャピタルとしてのお寺
さらに、このような実態を踏まえ、どうしたら人々の心をつかむ教化が可能なのか、川又先生は、1つの発想の転換を促されました。
世論調査によると、「自分は信仰をもっている」と自覚している信仰者は2、3割程度しかいない一方、「宗教心が大事」と思っている方は7割、8割になります。このギャップが現代日本人の特徴といわれます。これを踏まえて川又先生は、「このような日本の宗教事情からすれば、いかに布教し教化するか、と考えるより、むしろ、人々の苦悩やニーズにどう対応するか、という観点に立って宗教活動に取り組んだほうが、人々の心をつかめるのではないでしょうか。その結果、個々人が宗教の意義を見直すことにもなるでしょう」と、人々の協力や助け合いの行動を促す「信頼」「お互いさまの支え合い」「つながり」などを指す「ソーシャル・キャピタル」というアプローチを提案されました。(本誌2019年3月号105頁)
その実践例の1つとして、川又先生が推奨したのも「子ども食堂」でした。「子ども食堂」は、島薗先生も取り上げたわけですが、それだけ可能性のある取り組みなのかもしれません。
日本は、子どものいる世帯の貧困率が先進諸国でも高い方で、とくに母子家庭の生活課題は深刻といわれます。こうした状況を受けて、子ども食堂の設立が全国に相次いでおり、率先して取り組むお寺も増えているのです。
川又先生は、このように地域社会に寺院を開いていくことで、人と人の交流が始まり、地域も寺院も活性化していくのではないかと語ります。それは、「地域社会が1つの鍵である」とされた、前述の島薗先生の考えと相通じるものといえるでしょう。
共生社会における仏教の役割
その他、川又先生は、これから日本が多世代共生社会、多文化共生社会になっていく上で、寺院や僧侶が果たせる具体的な役割のイメージについても示してくださいました。
寺院の住職だけではなく、様々な世代、様々な職種の方が集まってチームを組み、子ども向けの学習支援、若い人の農業体験、そして高齢者食堂を運営している三重県の浄土宗のお寺。自分が所属している寺院だけではなく、地域内にある寺院全体のことをみんなで理解し、支え合っている真宗七里講の門徒さんの取り組みなど、発想を転換し、工夫しだいで様々な展開が可能であることを学ばせていただきました。
そして、とりわけ筆者が興味深く感じたのは、川又先生が、他の研究者と取り組んでおられる「伝統宗教の『次世代教化システム』の継承と創造による地域の活性化」という研究です。宗教者の養成とともに、檀家さん、信者さんの後継者の育成を含め、一緒に学び合うあり方を「次世代教化システム」として提案される予定とのことで、時宜に適った研究と受けとめさせていただきました。
そのことに関連して、今後の可能性を感じる実践例として、若い僧侶たちの取り組みがいくつか紹介されましたが、それも印象深いものでした。たとえば、これまで52年間、1泊2日の「緑陰禅の集い」を継続し、他宗派の人たちと一緒に災害ボランティアにも取り組んでいる三重県曹洞宗青年会。
それから、天台真盛宗、浄土真宗、臨済宗など、超宗派の僧侶たちが集まって、一般の方に向けた映画会などを開催している「亀山若手僧侶の会SANGA」などです。川又先生によれば、近年、檀家さん以外の方々に対するこうした取り組みが増えているそうで、次世代を担う若い方々が数多く現れていることを心強く感じました。
おわりに
さて、大きな時代の転換期にあって、日本仏教が現代社会の諸問題にどのように応えることができるのか、その社会的役割について、3人の先生方にお話をうかがってまいりました。それを通して未来への新たな可能性が見えてきたのではないでしょうか。
檀家制度の限界などが指摘され、ともすると悲観的になりがちなところがあるのかもしれません。しかし東日本大震災をきっかけとして寺院や僧侶の存在意義が再認識され、新たな役割が期待され始めていることがわかりました。かつて日本には、地縁や血縁によるしっかりした社会基盤がありましたが、今やそれが空洞化してきており、現代特有の新たな社会問題も生じています。これまで地域社会に根ざしてきた利点を活かし、寺院や僧侶が創造的な役割を果たすことが求められています。そして、すでにそのような模索を始めている寺院や僧侶が曹洞宗内外に数多く存在することもわかりました。
曹洞宗には、それまでの檀家制度の枠組みを超えて、在家を巻き込んだ変革へと行動した歴史があります。また東南アジアの難民たちを支援すべく、若い宗侶たちが国境を越えて活動した時期もあり、それが現在のシャンティ国際ボランティア会の活動へとつながっています。
そのような曹洞宗ならではの実績も活かしつつ、この時代から求められていることに向き合い、ぜひ、願わしい未来を切り拓いていただければ、と思います。
インタビュー特集「仏教の社会的役割を捉え直す」は、これで結びとなりますが、ここで語られたことが、少しでも皆さまの参考に供せられ、今後の歩みに活かしていただければと切に願っております。
末尾になりましたが、インタビューに快く応じてくださった島薗進先生、前田伸子先生、川又俊則先生、連載にあたり大変お世話になった曹洞宗宗務庁人事部文書課広報係、同出版部出版課の皆さまに、心から感謝申し上げます。 (了)