梅花のこころ~梅花流詠讃歌~ ─ 「達磨大師御和讃」二番─
毎月発行の『禅の友』では「梅花のこころ~梅花流詠讃歌~」と題しまして、梅花流詠讃歌の曲をもとに、解説や執筆者の想いなどを紹介しています。今月は梅花流特派師範、千葉県新井寺、松井量孝先生による、「達磨大師御和讃」二番のお話です。
本師の伝附徒ならず 三年を海に漂いて
はるばる赴く梁の国
武帝の眼の暗ければ 不識の言葉も術は無し
「達磨大師御和讃」二番
達磨大師さまは、お釈迦さまから数えて28代目のお祖師さまで、インドから中国へはじめて禅の教えをお伝えになりました。
ご命日とされる10月5日を「達磨忌」とし、ご遺徳をしのんで報恩の法要をねんごろにおつとめいたします。
達磨大師さまは、お師匠さまの命を受け、3年間の航海を経て中国梁りょうの国へ赴かれました。今から約1500年前、120歳のときと伝えられています。ご高齢をおしてのいのちがけの伝道には、深い誓願を感じます。そして、この歌詞は、当時の皇帝武帝と交わされた問答の様子を詠っています。
「仏法のもっとも究極のところとは何か」と尋ねる武帝に、達磨大師さまは「廓然無聖(カラリとした大空のように何の妨げも障りもなく、凡も聖もない)」と答えます。
この問答は、日常生活におけるわたしたちの「価値判断」に大きな疑問を投げかけているといえましょう。あらゆることがらについて、凡と聖、善と悪、迷まよいと悟さとり、損と得などと区別されるべきなのか、第一や第二ということがあるのか……。
いのちをいただいて、いま、ここに生き、生かされていることが尊いのであって、そこには区別も差別もない。
達磨大師さまの教えは、ものごとの真実を見誤ることなく、一期一会の人生の一日一日を、一生をかけて、ていねいに黙々と生きていくということなのです。
皆さまもどうぞご一緒にお唱えいたしましょう。