【連続インタビュー】仏教の社会的役割を捉え直す⑩

2019.09.13

本特集も今回で10回目を迎えます。これまで島薗進氏、前田伸子氏、川又俊則氏のお話をうかがってきましたが、それを通してしだいに視野が広がり、今後の課題も明らかになってきました。最後に、再び島薗進氏(現在、上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長、東京大学名誉教授)にご登場いただき、諸先生のお話も踏まえ、これからの日本仏教の社会的役割として何が必要されているのか、三回にわたって、まとめのお話をうかがいたいと思います。

聞き手・構成 (公社)シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー・曹洞宗総合研究センター講師 大菅俊幸

〈終章〉島薗進氏に聞く(第1回)社会を巻き込んだ仏法を

瓜生岩うりゅういわと仏教社会事業
――この特集も、いよいよ最終クールとなりました。今回から3回にわたって、この特集のまとめのお話をうかがいたいと思います。
まず、前回(本誌平成30年8月号~10月号)、島薗先生にお話をうかがっての後日談ということになりますが、先のお話の中で、先生は、幕末から明治にかけて日本の社会福祉、児童福祉の草分けとして活躍した福島の瓜生岩(瓜生岩子とも)について触れてくださったわけですが、当時の曹洞宗寺院の支えがなければ、あれほどの活動はできなかったであろう、とのお話に刺激を受けて、その後、調べてみると、なんと、瓜生が設立した「福島愛育園」の現在の理事長が曹洞宗の吉岡棟憲師であることがわかりました。そしてご連絡をとったところ、ありがたくも吉岡師にご案内いただいて、先生とご一緒に瓜生ゆかりの地を訪ねる、という幸運につながったわけですね。
島薗 そうですね。喜多方を訪ねて、そして福島愛育園にも訪問させていただいて、今まで知らない世界に触れることができて、本当にありがたいことでした。

瓜生岩の像(福島愛育園)

――私自身、不勉強で今まで存じ上げなかったものですから、曹洞宗を取り巻く人々の中に、こんなにすごい人がいたのだ、という思いとともに、こういう人を埋もれたままにせず、その足跡、業績を発掘して、現代につないでいく必要があるのではないかと強く思いました。とくに、最近、児童虐待の問題がクローズアップされて、児童教育のあり方が問われていることもあり、現代の寺院や僧侶の社会的役割という点においても考えさせられるところがあると思いました。
島薗 明治の初期は社会の変革期であったため、貧困の人々や孤児などが多数現れて、社会問題になっていました。そんな子どものお世話をする団体として、「福田会育児院」というものがありました。僧侶と在家が一緒になった超宗派の団体でした。
それから、もう1つ、渋沢栄一が立ち上げた「東京市養育院」というものがあったんです。元はと言えば、江戸の町人たちが、困った人がいれば助け合う、相互扶助的なものだったようですが、それを明治になって東京市が引き継いで、行き倒れで行き場のないような人たちや親のない子どもたちを預かる施設としてできたのです。
その東京市養育院が、明治20年代に福島から瓜生岩を幼童世話係長として招いたことがあるんです。何ヵ月か滞在しただけなんですが、瓜生が来ると、それまで元気のなかった子どもたちが、とてもなついて元気になったといいます。
やがて大正時代になると、渡辺海旭 かいぎょくなどが、セツルメント的な活動、つまり、貧困層の人たちが住む区域に定住して、住民たちと触れ合いながら、地域福祉や生活向上をはかる活動を開始するのですが、彼らも東京市養育院と協力しているのです。

――瓜生岩の影響というのは、福島の中だけにとどまらず、そういうところまで広がっているのですね。ところで、渡辺海旭という名前が出ましたが、浄土宗の僧侶で、仏教社会事業の草分け的な方ですね。そういう流れは現在にも続いているのでしょうか。
島薗 渡辺海旭は、10年間、ドイツに留学しているのです。それも浄土宗の費用で行っているんですね。ドイツはビスマルク以来、非常に社会事業が盛んで、キリスト教教会がとても精力的に取り組んでいました。
渡辺はそんな様子を目の当たりにしたものですから、大いに刺激を受けて、帰国してから宗門に働きかけるんです。そして、法然上人七百回忌の記念事業として、東京の深川に「浄土宗労働共済会」を立ち上げるのです。
「慈善救済」ではなく「共済的」社会事業を始めたことが画期的だったと思います。
仏教精神に基づいた相互扶助の考え方に立って、労働者の保護や防貧活動を展開しています。宗門もかなり力を入れています。渡辺海旭という人は、元々は在家の生まれで、幼い頃に寺に引き取られた人です。寺で育てられ、浄土宗宗門が育てた人と言えます。
大正時代は、慈善・救済事業から脱皮して社会事業が成立した時期なのですが、その役割の一端を担ったのが仏教、とくに浄土宗でした。渡辺海旭の社会共済の考えを受け継いだのが弟子の長谷川良信という人で、のちに淑徳大学社会福祉学部を開設するのです。
淑徳大学の前学長は良信師の次男である長谷川匡俊まさとしさんなのですが、彼に聞いたことがあるんです。なぜ浄土宗が社会事業で活躍するようになったんですか、と。そうしたら、「やはり人でしょう。渡辺海旭が出ました。その前には福田行誡がいます」と言っていました。福田行誡 ぎょうかいという人は、両国の回向院の住職だったこともあるのですが、廃仏毀釈の嵐の中で、仏法を守り、復興させることに尽力し、明治仏教の柱石とも言われた人です。

――両国の回向院といえば、そもそも江戸の大火で亡くなられて、身元がわからない多くの人々を弔うために建てられたお寺ですね。浄土宗は人々の痛みに応える事業に熱心に取り組んできた宗門、という印象があります。
島薗 しかし、曹洞宗にもすぐれた方々がいらっしゃいます。たとえば大内青巒や大道長安です。明治初期、社会問題の一つとして、貧児や孤児の問題がありましたが、大内青巒は育児事業にも強い関心を寄せて、先ほどの福田会育児院、設立の機縁となるような活動も行って、当時の仏教者に多大な影響を及ぼしています。
大道長安は、生涯独身で孤児の教育や刑務所での教誨にもあたりました。
貧困や疫病に悩む人には、迷信や祈禱をやめて、観音信仰による安心を求めるよう促しました。ただ、後に曹洞宗から離れたのは残念ではありますが。
それから曹洞宗の教会・結社であった「曹洞扶宗会」というものがありましたが、慈善による宗教的実践として貧困児童教育に着目して、全国の教員養成や小学校建設を援助するなど、かなり力を注いでいます。明治の初め、仏教は政府から相当に排撃されたわけですが、新しい国づくりには自分たちに責任があるのだ、という意識を強く持っていたと思うんです。近代教団を再編成して新しい社会を切り拓くのだ、という意識ですね。
現在、私は梅花流の研究に関わらせていただいていますが、戦後、ご詠歌講(梅花流)が始まるときも、同じような意識があったのだと思います。つまり、敗戦によってそれまでの精神的な基盤が崩壊し、新しい国づくりを始めなければならない。それにあたっては仏教に大きな責任がある、という意識です。そこから梅花流が始まったという経緯もあったと思います。それは、「社会を巻き込んだ仏法があってこそ、今後の日本社会がある」という考え方で、曹洞扶宗会の趣旨とも一脈通じるものがあると思います。
梅花流詠讃歌研究プロジェクトメンバーの報告によると、戦後の教団においては〈正法〉という言葉が盛んに出てくるのです。鬼生田宗務総長が、宗門のスローガンとして「竿頭の先に未来をひらく」とおっしゃっていますが、そこには、戦後に〈正法〉という言葉に託していたことと相通じるものがあると私は受けとめています。つまり、「社会に困難な問題がある。それを正しい方向に開いていく。担っていくのは私たちの責任でもある」という覚悟です。これは戦後の宗門がもっていた意識でもあるし、明治の初期、大内青巒の時代に、当時の宗門がもっていた意識でもあると思うんです。
――転換期に際して、新しい時代を切り拓いていこうとする宗門の伝統が、現在まで一貫しているのではないか、というご指摘ですね。ありがとうございます。

 

上智大学神学部特任教授 島薗進氏

●「地域社会」が1つの鍵
――では、次のお話をうかがいたいのですが、この連載でご登場いただいた、他の先生方、前田先生や川又先生のお話、お考えについてはどのように受けとめておられるでしょうか。
島薗 前田先生も、川又先生も、およそ私が考えていることと相通じるお話だったと思います。川又先生のお話でいうと、今の仏教界は、たしかに檀家が減っているとか、仏教行事に従来の檀家があまり積極的ではないとか、そして過疎化が進んで、地方ではなかなか寺院の運営が難しくなってきている、後継者が育たない、という現実が生じています。そういう点では、たしかに危機ということになります。
しかし、これを新しい方向に展開していくということができないわけではありません。川又先生も色々な例を挙げておられたし、前田先生も色々と考えておられたように思うんです。
やはり「地域社会」ということが1つ、鍵になるのではないかと思います。昔から、お寺は、地域社会で重要な役割を担っていたと思います。従来までは、地縁、血縁のしっかりした社会基盤があって、そこにお寺も自然に溶け込み、かみ合っていました。そういう時代があったわけです。ところが、江戸時代から明治、大正、昭和と続いて、平成となって、その関係がいよいよ揺らぎ始めてきました。
しかし、そういう変化をみながら、色々な試みも起こってきていますね。
そのあたりの最新の動きやニュースについては、川又先生が色々挙げておられたと思います。大正大学では『地域寺院』という雑誌を出していますし、曹洞宗でも『生き活き寺院 一寺院一事業の手引き』という冊子を作製して全寺院に配布したり、ホームページで公開したりしておられましたね。
全国青少年教化協議会では、仏教精神に基づき、青少幼年の育成活動に尽力して業績をあげている人々に対して正力松太郎賞という賞を与えて顕彰しています。中外日報も涙骨賞という賞を創設していますが、最近、実践部門が新設されました。各地域で宗教精神に基づいて社会に貢献している人を顕彰するものです。つまり、お寺が地域社会で創造的な役割を果たすことを世間が期待するようになってきており、それに応えるお寺の例も増えてきているということです。従来のような檀家制度を通じて地域社会に貢献することの限界が見えてきているので、そうではない方向を試みているのですね。

――たしかに、そのように新しい試みが始まっていると思うのですが、従来のような葬祭を行う仏教のあり方につ
いては、今後、どうあればよいとお考えでしょうか。
島薗 「葬式仏教」という言葉がありますね。これは、曹洞宗出身の大歴史家であった圭室諦成たまむろたいじょう先生が、1963年に『葬式仏教』(大法輪閣)という本を出版されて、そこから広まった、と言っていいと思います。現在では「葬式仏教」が、仏教のあり方を、批判的に、あるいは揶揄するような意味を込めた言葉であるように受け取られています。しかし、圭室先生としては、仏教がここに拠点をもち、ここに大きな力の源がある。これを土台にして今後の仏教を展開していくのだ、という意識でこの本を書かれたのだと思います。
竹田聴洲という宗教民俗学者が調べたところによると、寺院の草創の年代を調べていくと、日本のお寺のほぼ9割方が1400年代から1600年代、この200年の間に建てられているのです。地域社会のどこに行ってもお寺がある、という状況は、その時代にできたということです。それがやがて檀家制度と結びついていくんですね。檀家制度は17世紀になって江戸幕府が作ったわけですが、その前にすでにお寺は広まっているわけです。
ですから、地域社会の人たちが在家の信徒としてお寺と関係を作る、ということは、檀家制度ができる前にすでにできているのです。その基盤が今の葬祭仏教に続いているとすれば、長い数百年の土台があるということですから大事にすべきものだと思います。 たとえば、『がんばれ仏教!』(上田紀行著、NHK出版)で注目された、大阪の秋田光彦さんという僧侶(浄土宗)がいらっしゃいますが、自身のお寺の横に、應典院というお寺を作って、そこに若者を集めて色々なイベントを催していました。「葬式をしない寺」というキャッチフレーズを掲げて展開していたのです。しかし、その秋田さんが、去年ぐらいから「今こそ葬式を」ということで、「お寺終活プロジェクト」を立ち上げたり、伝統的な弔いや普段の檀家との関係をいかに大事にするかを考える場を設けたりとか、新しい取り組みを始めたのです。死者の弔いを仏教が担ったことの重要性を再認識されたのではないかと思うのです。
仏教が死者を弔うというのは、東アジアで言えば、日本に特徴的なもので、韓国にはありませんからね。中国も少ないです。中国では、むしろ道教的、儒教的な方法で弔いが行われます。死者と生者が深い交わりを保つ、という東アジアに共通する文化を、日本では仏教こそが担った。その特徴を今後も強く活かしていくべきである、ということだと思うんです。ところが、その葬祭仏教だけに頼ろうとしたり、かつて蓄えたものに依存しようとするようになってしまうと発展性がないのではないか、ということだと思うんです。 というのも、家族の規模が小さくなってきて、葬祭に集まる人が少なくなってきていますし、法事も減ってくる傾向にあるからです。

――日本では、中世まで、死者は道ばたの溝や河原などに捨てられていたといわれます。死は忌避されていたからですね。でも鎌倉時代になって、人々の望みに応えて、葬式を行う僧侶が現れます。鎌倉仏教者によって行われるようになった革新的な活動が葬式仏教だったのだと思います。
島薗 私は新宗教の研究にも取り組んでいるのですが、葬祭仏教的な伝統仏教の機能から洩れてしまう要素を、新宗教が拾い上げたと思うのです。在家だけの団体をつくる方向で発展したわけですね。神道系もあるし、仏教系もあります。ところが、今、そちらの方もピンチなんです。新宗教にも発展性に陰りがあります。お寺と緊密な関係を保つとか、あるいは集団に所属する、というタイプの宗教のあり方に限界がきているのだと思います。
西洋でいうと、教会に人が集まらないんですね。イギリスの教会は、色々なところに場所を貸しているそうです。たとえばサーカス場として、とかですね。日本だったらあまり好ましく思われないのかも知れませんが、それほど人が来なくなっている、ということだと思います。たとえ教会に人が来たとしても、従来のようなカトリックのミサや礼拝に参加するということでは、参加した感覚、充足感がもてない、といった声があるようです。これまでと違うタイプの集い方、交流の仕方が求められているのだと思うんです。そういう求めにうまく対応していく必要があるのだと思います。

――仏教だけではなく新宗教やキリスト教にも陰りがあるということですね。宗教全体が地盤沈下しているのでしょうか。
島薗 一般の人から見ると、宗教団体は敷居が高いんですね。そこに入ろうと思うと、仲間の世界、専門の世界があってなかなか難しい。あるいは、すでにしっかりとした色々なつながりがあって、そこにデビューするには相当準備していかないと入れない。よほどうまく導いていただかないと入っていけない。そういうことがあるのではないでしょうか。
たとえば、お寺で法話の会をやります、といっても、そこに誘われてやって来る、というのはなかなか難しい。でも落語の会をやれば人が来るとか、災害支援時に「ボランティアを一緒にやりましょう」というと、一緒に参加する気持ちになる、ということがあると思います。そのように様々な目的に応じて縁ができてくるわけで、その縁をどのようにうまく繋げていくか。そういうことが問われているのではないでしょうか。

――ありがとうございます。では、次回は、曹洞宗とシャンティの連携の可能性などについて、お話をうかがいたいと思います。

(次回は9月27日配信予定)

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