【連続インタビュー】仏教の社会的役割を捉え直す④

2019.06.21

前回は、島薗進先生(上智大学教授、東京大学名誉教授、グリーフケア研究所所長)に「これからの僧侶像とスピリチュアリティ」というお話をうかがいました。
3・11後に臨床宗教師というものが生まれた意義、そして、時代はこれまでの宗教という枠を超えて新たな道を探るところにきているのではないか、というご指摘など、根本的な問いかけをいただいた内容でした。島薗進先生のお話としては最終回となる今回は〈「社会苦」に向き合う〉というお話です。

聞き手・構成 (公社)シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー・曹洞宗総合研究センター講師 大菅俊幸

島薗進氏に聞く(第3回)「社会苦」に向き合う

81年カンボジア難民キャンプ(カオイダンキャンプ)図書館

●シャンティ発足の時代
島薗 これまで、生と死ということを中心に話してきましたが、人々が悩んでいる問題と同時に、社会が悩んでいる問題というものもあります。さまざまな社会の問題にどう向き合っていくかということも大事だと思います。とくに暴力、闘争、平和、科学技術と人間の関わりとか。若者はむしろそういうところから宗教に関心をもつところがあると思います。ところで、シャンティ国際ボランティア会(以下シャンティ)発足の時代には、そういう問題意識が強かったのではないかと思うのですが、いかがですか。
――シャンティの出発点は、1980年に発足した「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」という曹洞宗のプロジェクトにあります。
1979年、ポル・ポト政権の崩壊とともにタイに逃れた沢山のカンボジア難民の惨状が世界に大きな衝撃を与えました。そんな難民たちの姿がテレビで放映されるたびに、難民救援の関心が高まり、曹洞宗でもそのことが話題になって、救援活動の可能性が検討されていました。そしてタイに流れ込む難民の数がついに15,000人に及ぶという事態になって、いよいよ同じアジアの仏教徒に対して日本の仏教徒が傍観することは許されないという気運が高まって、現地に調査団が派遣された、というのが発端です。その調査団の報告を受けて、とても座視できるものではないとJSRCを立ち上げ、難民救済に踏み出すことになったのですね。その活動を引き継いで1981年に発足したのが「曹洞宗ボランティア会」であり、何度かの改組を経て、現在のシャンティがあるということになります。
島薗 アメリカがベトナムに関わるようになるのは主に1960年代ですね。ベトナム戦争となって、無差別空爆であったり、枯れ葉剤を使用したり、徴兵制の下で闘っていたアメリカの兵士の中にもこの戦争を疑問に思っている人が多かったと思います。日本は全面的に協力し、韓国からは多くの兵隊が現地に行きました。やがてアメリカは敗北し、撤退するわけですが、多くの難民が発生して、ボートピープルと呼ばれて小さな舟に沢山の人が乗って海外へ逃げたり、ということが起きました。
今はシリアから多くの難民が出ていますが、同じような状況がアジアで起きていたわけですね。そういう中で「曹洞宗ボランティア会」が立ち上がったということは大きな意義があったと思います。
当時、まだ高度成長期という波が継続していましたね。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(エズラ・ヴォーゲル、1979)という本が出たのもそのころで、第二次オイルショックによってアメリカも経済的にかなり低落傾向にあった時期で、日本が追い抜くのではないかという状況でした。
国内の社会問題はおのずと片付くのではないかという楽観があったからかもしれませんが、当時、貧困にあえいでいた東南アジアを支援することが仏教界の大きな課題としてあったと思います。その流れが現在までも続いているように思います。今もそういう活動を支援している地域のお寺さんはたくさんありますね。
そういう活動で養われたものが、日本の問題への関心にもつながってきたのではないでしょうか。90年代以降、日本が格差社会になってきて、弱い立場にある人の問題、貧困、差別の問題の認識、とくに女性差別の認識など、国内の問題に取り組む動きが活発化する流れになってきたように思います。活動する人たちの側からするなら、そこにこそ宗教、仏教の重要なはたらきがあるのではないか、という認識なのではないでしょうか。

インタビュアー 大菅俊幸氏

●慈悲の社会化、仏教の社会化
島薗 シャンティ発足の中心的存在で、その後もリーダーとして先頭に立っていた故有馬実成さん(2000年没、山口県原江寺前住職)は、〈慈悲〉という言葉をよく言われていたように思うのですが。
――「慈悲の社会化、縁起社会の実現」ということをよく言っておりましたね。それをヴィジョンとしていたと思います。
島薗 慈悲の社会化。つまり、仏教こそ社会の問題に応じる力があるし、義務もある、という考え方ですね。それは明治時代の大内青巒などと共通するものがあると思うんです。仏法は本来、正法を広めるものであって、ダルマ(法)にのっとった社会を求めることが仏教教団の目標なんだということですね。
じつは、最近、曹洞宗の梅花流詠讃歌の研究にも関わらせていただいています。梅花流が生まれたのは戦後ですね。第二次大戦後、曹洞宗の中で、今こそ正法のための活動というものを想い起こすべきときだ、と唱えられました。そのことと梅花流はつながっているのですね。つまり在家の人々を巻きこんで社会に仏法を伝えていく活動、それが梅花流の展開の動機であるということですね。
――シャンティも、お坊さんと在家の人が一緒になって活動しています。
有馬さんはシャンティを持続可能な組織にすることに晩年まで心血を注いでいました。日本仏教にはすぐれた社会的実践の歴史があるのに、それが長続きしなかったのは組織化しなかったからだと考えていたようです。シャンティを社団法人にするにあたっても、「シャンティは出家も在家も一緒に乗せる21世紀の大乗でありたい」と唱えて、支援を呼びかけました。お陰さまで組織的にはかなり整備されてきましたが、理念の伝承が手薄になってきているのではないだろうか、しっかりしなければと思っているところです。
島薗 色々なレベルで、慈悲の社会化、仏教の社会化をしていく可能性があると思います。シャンティが誕生したように、団体、組織を作っていくことも必要ですが、既存の団体、たとえば青年会などをさらにどう活性化するかという課題もありますね。
また教学というレベルですね。現代の思想として力強いものが必要だと思います。人々の生き方や生きがいのヴィジョンに響くような教学の展開が必要と思います。仏教研究は、これまでの仏典研究の成果などもあって、とても素晴らしいものがありますが、現代社会にふさわしい仏教の役割という観点から伝統を見直す面が今後の課題ではないかと思います。
日本仏教は宗派に分かれていて、なんでも宗派ごとに取り組む事情があるので、どうしても単位が小さくなって、課題も山積で、なかなか人々の求めに追いつかない現状があると思いますが、横の連携をはかりながら、日本仏教として世界に対して力あるメッセージを発信していただきたいと願っています。
現代社会に果たすべき宗教の役割の探究という点は宗教学の弱いところでもあります。社会の中における宗教の位置というところから問うていく研究がまだまだです。それから人文学の分野ですね。哲学、倫理学、歴史研究でも、宗教の重要性があまり認識されていないと思います。哲学というと、ソクラテス、カント、ハイデッガーはどう言っているか、それはもちろん重要なのですが、日本のスピリチュアルな伝統とか、仏教やアジアの宗教思想とどう関わっているのか、ということはあまり取り組まれていません。かろうじて西田幾多郎らの京都学派が取り上げられますが、そこからの広がりが限られている感じですね。
もっと、われわれの現実に即した理論的展開が必要だと思います。そういう点で、大菅さんの『慈悲のかたち―仏教ボランティアの思考と創造』(佼成出版社、2017)は、私にとってはたいへん心強かったです。
それから、先ほど(曹洞宗報2018年9月号参照)名前が出た岡部健先生の聞き書きを書いた奥野修司さんの『看取り先生の遺言―がんで安らかな最期を迎えるために』(文藝春秋、2013)、これは仏教書ではないんですが仏教に大きなインスピレーションを与えるものだと思います。
――そのようにおっしゃっていただいて恐れ入ります。私たちは困難を抱える人たちと接する中から体験的に仏教を学ばせていただいているのだと思っています。有馬さんも現実の諸問題に向き合って活動するとともに日本仏教の中にモデルとなる思想や実践を探して、叡尊
(註1)や忍性(註2)を発見し、精神的な支えにしていったのだと思います。
島薗 叡尊や忍性というのは真言律宗であり、曹洞宗とは別の流れかもしれませんが、戒律重視の点など共通点も多いので、有馬さんはもちろん自分の宗派の教えを重んじつつ、その枠にこだわらずに力を発揮されたのだと思います。必要なことだと思います。
曹洞宗の中には他にもそういう流れはありましたね。先ほどの大道長安という人もそうですし、明治の初めに瓜生岩(瓜生岩子とも。1829~1897)という女性がいました。この人は会津の人です。戊辰戦争において敵味方の区別なく負傷者を救護して、学校を作って孤児や貧困の人々の保護にも取り組みます。多くの事業を手がけ、生涯、弱き人々のために身を捧げた人ですね。在家の人で、寺院の協力が大きかったと思います。曹洞宗寺院の支援がなかったら活動できなかったのではないでしょうか。曹洞宗の歴史の中では注目されないのかもしれませんが、こういう人を発掘することも必要ではないでしょうか。
瓜生が設立した福島愛育園が今も福島市にあります。明治時代に行われた福祉活動としては先駆的ですし、在家と寺院の協働という点でも注目すべきだと思います。
江戸時代にさかのぼると、黄檗宗の僧侶が社会的事業に取り組んだ例もあります。地域の曹洞宗寺院もそういう活動を様々に実践してきたと思います。そういうものを発掘することも重要だと思います。
――そうですね。シャンティと連携して活動している地域の寺院も多いです。

 

島薗進氏

島薗 色々な可能性があると思います。曹洞宗として、同時に日本仏教として、また世界の仏教として重層的な視点から期待したいです。混迷する現代社会に対して仏教からの確かなメッセージが聞きたい。教団の外にいる人間としては勝手ながらそんな願いをもっています。
現在、曹洞宗総合研究センターにも関わらせていただいていますが、教学的な面から、もっと現実に即した理論化をしていきたいという関心をもっている方々が多いです。総合研究センターは、将来、地域の宗教活動に取り組むことも念頭に置いているのだと思いますが、曹洞宗にもそういうところにさらに力を入れていただければと思います。
たとえば慈悲の教えについて、道元禅師、瑩山禅師はどう説いておられるのか。「四摂法」は通仏教的な教えですが曹洞宗ではよく説かれている教えですね。これは現代人にも通じる教えだと思います。現場に通じるようなこうした教学理論にさらに積極的に取り組んでいただきたいと思います。
道元禅師は修行の場を確立しりっぱなお坊さんを生みだすことに全力を注がれました。瑩山禅師の方は地域社会でどう人々と接するかということで新たな方向性を示されたわけですね。私が今後、学びたいことの1つです。曹洞宗というと一般には道元禅師とイメージされているように思います。道元禅師と瑩山禅師が曹洞宗の両祖なのだということもあまり知られていないですね。
それから、曹洞宗では『生き活き寺院』という冊子を作製されましたね。
お寺が社会で活動するあり方のモデルケースを集めたもので、こういうものが広く浸透するといいと思います。ただ、檀家さんのお世話をするので精一杯だという寺院もあると思います。そういう寺院にとってのアドバイスになるものもあるといいですね。たとえば、いかに葬祭をしっかりしたものにするか、これも容易ではない課題かと思います。
――ありがとうございます。島薗先生には、大局的なお話から具体的な提案にいたるまで貴重なお話をいただきました。誠にありがとうございました。

(1)叡尊(1201~1290)。鎌倉時代、当時、頽廃していた僧侶たちの姿を憂い、「釈迦に帰れ」と、戒律の護持をめざし、同時に社会救済活動に身を挺した僧侶。「興法利生」(仏法を興し、衆生を救済する)を掲げて、戒律復興の中心道場として奈良の西大寺を復興させ、真言律宗を立ち上げ、多くの人々に戒を授けた。その一方で、ハンセン病者の救済、橋や港湾の整備、寺社の創建など、様々な社会救済事業を行った。
(2)忍性(1217~1303)。奈良の西大寺、叡尊の高弟として戒律の復興に努め、さまざまな社会救済活動に取り組んだ僧侶。東国伝道のため関東に赴き、鎌倉極楽寺の住職として37年間、目覚ましい救済活動を繰り広げる。ハンセン病者の療養、貧民救済はじめ、港の修築・維持、海浜の管理、道路・橋の修築・維持なども手がけた。

 

(次回は7月5日配信予定)

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