【連続インタビュー】仏教の社会的役割を捉え直す①

2019.05.10

テロ、金融危機、技術革新、気候変動に伴う環境破壊――激しく流動し、地球規模の危機も迫っている今、従来の通念や方法では立ちゆかなくなっている問題が増えています。超高齢化、多死社会を迎え、仏教者も新たな転換を促されています。現代社会が抱える今日的な課題に仏教はどのように応えることができるのでしょうか。

そこで、仏教に関わりの深い専門家に様々にご提言いただき、これからの時代に必要とされる仏教者像、仏教の社会的役割についてご一緒に考えていただきたいと願って、インタビュー企画「仏教の社会的役割を捉え直す」の連載をスタートすることにしました。
本連載企画の原案は、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(以下SVA)からご提案いただき、その後、様々に検討を重ねてSVAのご協力のもと実施することになったものです。全体構成とインタビュアーを担当していただくのは、長年、SVAで活動してきた大菅俊幸氏(現・同会専門アドバイザー、曹洞宗総合研究センター講師)です。どうぞご期待ください。

 

序・本企画のはじめに―仏教の社会的役割とは― 

震災後、僧侶たちはどう動いたか

仏教界は大きな曲がり角に来ているといわれます。
近年、『寺院消滅』という本が話題となって、仏教寺院が直面している現実が広く知られるところとなりました。高齢化、過疎化、核家族化、都市への人口流出、そして後継者の不在などによって、2040年までに、仏教寺院を含め、35%の宗教法人が消えてなくなるといわれます。
しかし、決して悲観的にばかりなる必要はないと思います。というのも、2011年の東日本大震災の後、被災地の支援活動にSVAの一員として関わりましたが、その中で出会った宗侶の皆さまはじめ、仏教関係者の皆さまの活躍ぶりを目の当たりにし、改めて日本における仏教者の役割というものを再認識したからです。

思い起こせば、私がサラリーマンをやめて転職し、SVAに飛び込んだのは1995年のこと。折しも阪神・淡路大震災が発生し、ボランティアに行きたいと思って扉を叩いたのが最初でした。その後、神戸に赴いて活動し、それがご縁でそのまま転職してSVAの職員になりました。
今も忘れがたいのは、同年10月、京都で行われた「阪神大震災が宗教者に投げかけたもの」というシンポジウムのことです。「被災地に宗教者は立っていなかった。主役を演じていたのは、ボランティアであり、カウンセラーであり、精神科医だったではないか」――。コメンテーターとして参加した宗教学者の山折哲雄氏のこの言葉が物議をかもすことになりました。
仏教はじめ、キリスト教、神道、新宗教を代表して参加していたパネリストたちは、たちまち気色ばんで、「マスコミの報道だけから判断するのは学者のとるべき態度でない」と、ただちに辛辣な反論が応酬されました。
曹洞宗の皆さまと連携して活動していた当時の私たちからすれば、山折氏の発言には忸怩たる思いでした。が、残念ながら、被災地の一部寺院が門戸を閉ざしていた面があったのは事実でした。「被災者のためにお寺の一部を使わせていただけないでしょうか」とお願いに行っても、「檀家さんに迷惑がかかるから」「葬儀や法事などに支障をきたすから」と断られたことがありました。正直、この国の宗教者は何を考えているのか、と思ったことも事実です。
それだけに、その後、自ら被災しているのに、一時的にでもボランティアのために庫裏の開放を申し出てくださる寺院があったときは本当に感激でした。

 

仏教者にしかできない役割がある

南相馬の仮設住宅での傾聴活動

そのときとくらべてどうでしょうか。東日本大震災の被災地における仏教者の存在感は、比較にならないほど大きなものがありました。災害支援や社会貢献に対する仏教者の意識が格段に変化したことを感じました。
今回、被災地では、多くのお寺が本堂や庫裏を檀信徒や地元の人々のために避難所として開放しました。SVAの調べでは少なくとも約80ヵ所にのぼります。避難所としてだけではなく、SVAがお世話になった気仙沼のいくつかのお寺は、私どもNGOの活動拠点としてお寺の一部を開放してくださいました。その他、お寺の駐車場を地域の人々に開放し、そこにテントを張って支援物資の配布所としたところもあります。
被災地外のお寺の中にも精力的に取り組んだお寺があります。福島の子どもたちを受け入れたお寺は多数あるはずです。
それから全国各地から被災地に支援物資を運んだり、炊き出しや瓦礫の撤去などに汗を流したりする数多くの僧侶たちも見られました。SVAも宮城、岩手、福島の被災地で支援活動に取り組んできたのですが、協力してくださった宗侶の皆さんは数知れません。
とくに忘れがたいのは避難所や仮設住宅に赴いて、一緒にお茶を飲みながら被災者の言葉に耳を傾ける僧侶たちの姿です。今回ほど、「寄り添う」という言葉が聞かれたときもありませんでした。
「亡くなった家族はどこに行ったのでしょうか」「人間は死んだらどうなるのでしょうか」――。
津波で身近な人を失った人々が、このような切実な思いを打ち明けられる相手は僧侶しかいなかったのでしょう。相談を受けた僧侶は数知れないと思います。津波による突然の死のような不条理な死に直面すると、死の受容、悲嘆を癒す作業はとても困難になります。宗教心の有無がとても重要であり、ケアする側に宗教者、とくに仏教者の参加が必要であることもよくわかりました。

宮城県気仙沼市の清凉院で行われた復興イベント

一方、瓦礫の中で位牌や写真を探している被災者の姿も見られました。
「幽霊を見た」という話も、私自身、何度も耳にしました。そのような人々のことを思って、被災地や遺体安置所などに赴いて読経し、供養をして歩いた僧侶は少なくありません。
自ら被災しつつも、「こんなときにこそ宗教者が支えなければ」と供養に出かけ、檀信徒を励まし続けている僧侶。「気持ちに区切りをつけるために供養してほしい」という相談が寄せられ、そのような声に応えて、遺体安置所での読経を申し入れた僧侶。そして、遺体安置所が難しいならば、亡くなられた現場で花と線香を手向け読経しよう、と思い立って活動する僧侶もいました。今も、折々に被災地の海岸に赴いて、供養の行脚に歩いている僧侶たちがいます。

 

時代からの要請とは

こうして、今回の大震災は仏教者の役割を再認識する機会となりました。
いや、災害時ばかりではなく、現代社会が抱えるその他の諸問題についても、もっと仏教が果たしうる豊かな可能性があるのではないでしょうか。
「寺院消滅」と言われますが、決して人心が仏教自体から離れているわけではなく、仏教を求める潜在的なニーズは高いのだと思います。この時代から要請されている仏教者像とは、仏教の社会的役割とはどのようなものなのか。改めてそのことを捉え直す必要があるように思われます。その上で改めるべきは改め、変えてはならないことはしっかり守ってこそ、日本仏教のさらなる活性化への道が開かれるのではないでしょうか。
そのために、この企画が少しでもお役に立てることを願います。次回から、「宗教者による社会貢献」に詳しい専門家の方々にインタビューし、これからの時代に必要とされる仏教者像、仏教の社会的役割について率直にご提言をいただきたいと思っています。どうか読者の皆さまの忌憚のないご感想、ご意見をお聴かせいただければ有り難く存じます。

(次回は5月24日掲載予定)

 

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