梅花流ことはじめ【その12】尼僧師範の活躍
埼玉県の密厳流師範のもとへご詠歌修得のために派遣された尼僧三人(野村秀明師・熊倉実参師・笹川亮宣師)の内の一人、笹川師が当時のことを記した文章があります。
追憶すれば昭和26年の12月、尼僧団常任理事であられた小島賢道師から推薦を受けて、埼玉県川口市の密厳流・江連先生について梅花流詠讃歌を勉強しはじめたのが、野村先生と梅花を共にするご縁でありました。詠歌の音階も解らず、最初指導を受けました曲目が「梅花」と「紫雲」でした。江連先生が唱えられ、「ハイ、二人でどうぞ」「あのー、音階はどちらから読むんですか?」「左から右に読んでください」「ハイ」という寒い冬の練習が続きました(「野村秀明先生を追憶して」『おたより』曹洞宗尼僧団機誌、1973年9月号)
笹川師のお話では、慣れないご詠歌の練習に戸惑いながらもお互いに励まし合って研修を続けたそうです。この頃、野村師は44歳、笹川師は27歳だったそうです(もう一人の熊倉師については未詳)。笹川師のお話ではそれまで他流のご詠歌の経験もなく、特別な音楽的素養があったわけでもないとのことでした。まったく新たな「ご詠歌」という舞台への挑戦だったわけです。しかし3人は、間もなく発足することになる梅花流の活動において重要な役割を果たすようになります。昭和27年にテイチクレコードから初めての梅花流詠讃歌レコードが発売されましたが、これは野村師・熊倉師の二人による詠唱の吹込でした。また全国で展開される梅花流ご詠歌の布教講習も野村師・笹川師の活躍によるところが大きかったのです。
梅花流を研修する尼僧たちは独自に尼僧を主体とした研修会を起ち上げました。それは昭和29年に発足し、時の梅花流師範・赤松月船師によって明珠会と名づけられました。2泊3日の日程で、ご詠歌の研修だけでなく『正法眼蔵』の学習や、布教の仕方、法語の作成の仕方など僧侶としての広範な教養習得のための講義も盛り込まれた充実した内容でした。同会の研修に早期から参加していたという長野県の梅田光洋師(寂照庵住職)によれば、参加人数は例年十〜二十数名、全国から参加した尼僧たちによる真剣かつ親密な研修であり、多くの仲間が出来、そして同会参加者の中から全国で活躍する梅花流師範が数多く輩出されたということです(平成27年3月聴取)。
このように梅花流草創期における尼僧たちの活躍は、梅花流の中において大切な意義がありましたが、それだけでなく前回述べたように、尼僧団が曹洞宗教団の中でその地位復権を果たそうとしていた動きの中でも、注目すべき活動だったのです。
秋田県龍泉寺 佐藤俊晃