【人権フォーラム】死刑制度について考えてみる~いのちの尊厳と人権的見地から~
はじめに
私たちの、生命に対する権利(「生きる権利」)とは、人が生まれながらに持っている基本的人権の中でも特に基盤になるものとされ、個人の「生きる権利」は等しく尊重されなくてはなりません。
死刑制度は国家の名において「生きる権利」を強制的に剥奪する究極の刑罰制度です。それに加え、罪を犯した人の更生と社会復帰の観点から見たとき、その可能性を完全に奪うという側面もあります。
曹洞宗が加盟する全日本仏教会(主要五九宗派、都道府県仏教会や仏教系団体加盟の伝統仏教界における連合組織、以下、全日仏)では、2018年度から、これはきわめて宗教的・社会的あるいは人道的な課題として、全日仏に設置された社会・人権審議会に対し釜田隆文理事長(当時)より諮問がありました。そして検討が重ねられ答申に至り、昨年「死刑廃止について」として「(犯罪の)被害者や被害者遺族の方々、加害者や加害者家族の方々の多くの課題を包含しており、仏教者間で死刑について問題を共有し、社会全体との議論を深めることを期待する」(要旨)とした理事長談話が公表されました。
しかしながら、その課題や刑罰制度が大いに議論されているとは言い難く、社会との関わりを持つ宗教者が無関心であってはならないとも思われます。
それでは「いのちの尊厳」に関わる諸問題から死刑制度の問題点、刑罰に直結する裁判員裁判について宗門での検討を軸にみていきたいと思います。
19人の生命とネット社会
2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に元施設職員が侵入して入所者19人の生命を奪い、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた事件がありました。加害者は、殺人などの罪で逮捕・起訴され、横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を言い渡され、自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定しています。
元職員は、「重度障害者とは意思の疎通ができない。動物と同じ」、「ただいるだけ。だから、殺せ」を自身の論理として社会に訴えました。犯行直後、「これで世界が平和になりますように」とネットを使って情報発信すらしていました。被告の論理がすべて通るならば、私たち人間を含むすべての動物は殺し合い、死に絶えることになります。殺人の上に成り立つ平和とはなんでしょうか。
ネットでは、元職員に同調する意見も多く散見されました。ネット社会の深化(進化)に伴い、ヘイトスピーチに見られるような、ネット上における人間の尊厳を冒すような極端な思想が、一定の匿名性が担保されている公的な場で平然と言えるようになっています。見ず知らずの他人に対して、いつから人は「あんな奴らはいなくなった方がいい」と言えるようになったのでしょうか。「重度障害者に生まれたこと=自己責任=悪である」と断ずる発言を目にしたとき、あまりの非情ぶりに驚愕させられました。まるで施設入所者を加害者扱いし、「死んで当然」とする発言の裏に何があるのかを考える時期に来ています。
本記事は、死刑制度や裁判員裁判への賛否を問うものではありません。しかしながら「いのちの尊厳」に関する諸問題からネット社会における極端な発言や思想が散見される昨今、わたしたち宗教者が「いのちの尊厳」に無関心でいるのは、いささか無理があるような気がいたします。
死刑制度の問題点とは
日本では、今日まで死刑制度が存置されてきました。国民の大多数が死刑制度を支持しているというのが、根拠とされています。しかし、死刑制度について極めて情報の少ない中で、大多数が支持しているという根拠は適切なのでしょうか。それでは「はじめに」でお伝えしました、全日仏が昨年公表した答申から、死刑制度について少し考えてみたいと思います。
……仏教の教義と死刑が相いれな いことは明白である。しかしながら、現在、世界の潮流として死刑の廃止や執行停止が進む中、日本では依然として死刑制度が存在している。特に我が国においては死刑執行には密室的な秘匿性があるため、情報公開が十分ではなく国民の間で本格的な議論になり得ていない。……(以下略)
まず「世界の潮流として」とは、2013年12月末現在、死刑を廃止または停止している国は140ヵ国(世界全体の71%)であり、同年に死刑執行した国は22ヵ国に過ぎない、という事実に拠ります。いわゆる先進国グループとされるOEDC(経済協力開発機構)加盟34ヵ国のうち、死刑制度を存置している国は日本、韓国、アメリカ合衆国のみです。しかし、韓国とアメリカのいくつかの州は死刑を廃止または停止しており、日本は国際社会において数少ない存置国の一つなのです。
次に、死刑執行に関して「密室的な秘匿性」「情報公開が十分ではなく」とする点は、死刑判決確定後の処遇や死刑執行の実施状況などについて、法務当局が情報独占の状態にあることを指します。死刑制度やその運用に関して情報公開することは、一般市民が裁判員制度導入により死刑判決に関与する可能性がある以上、正しい量刑判断がなされるために必要条件です。加えて、誤判や冤罪により無実の人の「いのち」を奪う可能性すらあり得ることからも、究極の刑罰である死刑が規定に従い、適切に行われているか監視するためにも情報開示は不可欠とも言えます。
国のいう「国民の大多数が死刑制度を支持している」という理論は、「基本的法制度に関する世論調査」(2009年内閣府)で「場合によっては死刑もやむを得ない」との回答が85.6%にのぼっていることを根拠とします。しかし、この回答をした人のうち34.2%は「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してよい」と回答していることから、死刑廃止肯定派と考えた場合、死刑制度を支持している人の割合は全体の半数程度といえます。
加えて、「死刑の廃止は、犯罪の抑止力が無くなり、凶悪・残忍な犯罪が増加する」との意見もありますが、アメリカでは死刑在置州の方が殺人事件の発生率が高いというデータもあります。実際に昨今の日本では「死刑になりたい」という身勝手な動機での「無差別殺人」が、繰り返し惹起しています。
人を裁くことの意味
曹洞宗では、死刑制度に対して明確な見解や立場を表明してはおりません。しかしながら、死刑制度と大いに関連のある裁判員制度の施行(2009年5月)を機に発足した、曹洞宗総合研究センター・「宗教と法律」研究プロジェクトでは様々な検討がなされています。
死刑制度の是非を云々する前段階として、この法治社会の中で「(宗教者の立場から見て)人間の心にある善と悪とは何か」「人間の罪とは何か、罰を与えるとはどういうことなのか」を研究課題として掲げ、そのなかで「大乗仏教の無常・無我の教えの上で、宗教者が人を裁くこと、あるいは人の善悪を決めることは可能なのか」との検討がなされました。
この研究プロジェクトでは、宗教的視点による「罪と罰」や「善と悪」の再定義化をした上で、「人を裁くことの根源について、もっと宗教者はシビアに考えなければいけないのではないか」との議論に至りました。例えば、聖と俗の狭間にある宗教者が法廷等の場で「実際の罪」を目の当たりにしたとき、または「死刑判決」をくだす場面で、「果たして聖人たり得るのか否か」を含め、「人を裁く」ことは、宗教者にとって重要事項と考えました。
そして、研究プロジェクトでは実際に裁判員を経験された方が「無罪判決を出したが、果たして自身の判断は正しかったのか否か」を自問自答する日々について、聞き取りも行いました。これらを踏まえ、人間の真理(心理)の追求に関わる宗教的問題の見地として、2017年11月、曹洞宗檀信徒会館で、「人を裁くことの意味を問う~一般社会と宗教の「善悪」観について」と題したシンポジウムが、藤丸智雄師(浄土真宗本願寺派総合研究所副所長)、南直哉師(福井県霊泉寺住職)をお招きし開催されました。単に制度の中身を云々するのではなく、その奥にある人間の真理(あるいは心理)を追求していく内容のシンポジウムとなり、活発な議論がかわされました。
おわりに
これまで、死刑制度の問題点や裁判員制度についての検討をみてまいりましたが、どれも様々な課題があり容易には結論は出せません。過去に宗門では、脳死・臓器移植の是非について論じており、そこでは、宗門の多くの経典に目を通し、当時の宗侶が適切と判断した経典からの引用をもとに検討した経緯があります。例えば賛成派は「布施」、反対派は「個のいのちの尊厳」とそれぞれの論理をもって意義付けした成果があります。
しかしながら現代社会における諸問題、その問題の所在は、ネット社会の発展により複合的、重層的で難解なものになりつつあることから、このような問題解決に「教え」を引用する限界もあることを顧みるべきであると考えます。
つまり、私たち宗教者が問題点から目を背けることなく、たゆみなく考え続けることにより、より良き社会の実現のため何をすべきか、見えてくるのではないでしょうか。
人権擁護推進本部記
【参考】 ・全日本仏教会 第三三期人権・社会審議会答申「死刑制度について、いのちの尊厳と人権的見地から考えてみる」 ・『宗教と法律「裁判員制度」を考える』講演録 曹洞宗総合研究センター ・『死刑廃止についてもっと議論してみましょう』 日本弁護士連合会